上高く、真の光りに被われて居たが故に偉大なのである。
道徳も、芸術も宗教も、その源は此の「真」と云う一字のみである。
「真」外見はまことに厳格なものらしい面持をして居るけれ共、その胸の中には、完全な感情を育んで居るものである。
「真」は親を愛する事も、他人を愛する事をも知って居る。
故に、基督は、「汝の敵を愛せよ」と叫んだ。
何故に、汝の敵を忘れよと叫んだか。
それは、自己のためにである。
又とない尊い自分のためにである。
絶えず心眼にうとましい敵の姿をうかべて、影の多い心になるのを厭うたからではないか。
キリストは自己のために万人を救うたのだと云うたワイルドの言を正しいと思う。
彼の最も清浄な、涙組むまで美くしい心のあふれ出た「獄中記」の中で、
「基督は、何者にもまして個人主義者の最高の位置を占むべき人である」と云うて居る。
真の箇人主義は斯くあるべきではないか。
私の云う霊を失った哀れなる亡霊の多くは、箇人主義を称えて、自らを害うて顧見ない。
自己の上に輝ける真を得るためには、真を裏切らぬ事をなさねばならぬ。
真に近づいて真を得るのである。
箇人主義は、即
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