れを聞いて、非常に危険な感を抱く人があるかもしれない。
それは、自己完成が道徳的でないでもなしとげられるものだと云うから、奔放《ほんぽう》は廃徳な心状を以てなす芸術に於て自己を完成しても――少《すくな》くともその当人はそう自信して居る場合、それは自己完成と云え様か。
例えば、或る小説家は極端な人情本を書く事に衆を抜ん出て居たと仮定する。
而してその人は、その事に他の及ばない自己を持って居たものとする。
その人の著したもののために、世の多くの人の心が害されたと云う事が起れば、それは、自己完成と云う事が出来る事は出来るが、只其の名を汚す事をのみするものである。
如何なる事に於ても、其を一貫した「実」と云うものがなければ、其は、その形骸のみをそなえて最も尊い霊を失ったものである。
世の中のあらゆるものに「真」のないものは決して長生する事は出来ない。
聖ダンテの「神曲」は、何故今日まで不朽に生命を受けて居るか。
永遠に変らざる「真」がその一言の中にも輝いて居るからでは無いか。
ホーマーもミルトンも、只「真」の一字がある故に尊いではないか。
孔子、基督、その他あらゆる人々の頭
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