「自己の完成」と答えるのである。
 堪え得ぬ魅力をもって此の言葉は私の心を動かす。
 己を私するに、自己完成ほど力強いものが有ろうか。
 私の云う自己完成と云うのは、或は今まで多くの人々の云ったのとは少し異うかもしれない。
 私は、実の自己と云うものは、一個の肉体に宿る多くの意志、感情、智の中で、生れ出た時既に宇宙の宏大無辺の精力の中から分けられた精力が、その三つの中のいずれかに宿って居る時に、その先天的にある精力を自己と云いたい。
 そう云えば、世の人の云う天才と云う意味にもなろうけれ共、私はそこまで特殊なものにはしない。
 何人と云えども、その人々の特徴がある、其の特徴のある事が即ち、此の三つの中のいずれかの一つに他よりも多く精力を授けられて居る証《あかし》である。
 それ故人々の自己は、皆異って居るべきであるから或人は、哲学に宗教に自己を完成し、又は、芸術に、物事を実践躬行する事に於て自己を完成するのである。
 道徳的自己完成をはかる事は、昔から自己完成と殆ど同意義に思われて居るのではあるまいか。
 斯うして、私は、自己完成とは如何なる方面に於てもなし得らるるものと云った。
 こ
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