の場所とする事は、願うべき事である。
そう云えば、此の主我が主張する箇人主義、利己主義は真に尊いものであるべきである。完全なものであるべきである。
それを、何故、此の主義は、子を奪い去って、老いた両親に涙の臨終を与え、又その子をもほんろうし歎かせ、やがては、淋しい最後《いまは》の床に送るのであろうか。
人々は、年老い、遠い昔に思を走せて居る一代前の人々の歎きを理由のないものとするかもしれない。
わびしくこぼす涙を、年寄の涙もろさから自と流れ出るものと思いなすかもしれない。
けれ共、その心を探《さぐ》り入って見た時に、未だ若く、歓《よろこび》に酔うて居る私共でさえ面を被うて、たよりない涙に※[#「さんずい+因」、424−3]ぶ様になる程であるか。
私は静かに目を瞑って想う。
順良な、素直な老いた母は、我子等の育い立ちを如何ほど心待って居る事であろう。
日一日、時一時、背丈の延びると共に心も育って行く。いかほどの喜びを以てそれをながめて居る事であろう。いつか子の背は、我よりも高く、その四肢は、若く力強く、幾年かの昔、自分の持って居た若き誇り、愛情をその体にこめてある事と想う
前へ
次へ
全9ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング