「白石噺」の作者は、義太夫の文学の中に信夫のひどい東北弁をとり入れ、それが交通不便で、その東北弁の真偽を見わける機会もない当時にあっては珍しく、そこが所謂新趣向として都会の閑人たちの耳をたのしませたのであった。
 今日娘の身売りは、道徳的な方面からだけ問題を見る方向へそらされて、徳川時代から引つづいたそのような風習の根源である、東北の農民の歴史的窮乏の経済的原因は、後の方へ引とめられている。もし愛国婦人会や矯風会が本当にそういう事を防止するために一般婦人の力を糾合するのであるなら、それらの婦人に先ず第一、小作制度の本質をつきとめさせ、農民の負うている負債の性質について実際を理解させなければならないのであろう。そのような根本的な点にふれぬために現代の社会機構について知識のうすい婦人の層を動員しての身売防止運動であることは、既にしれわたった事実であると思われる。却って、このことがきっかけとなって、友松円諦のような者や、農村自力更正修養団の思想やがはいりこむことも予想される。
 この間、プロレタリア作家の徳永直と、これはプロレタリア短歌を専門とする渡辺順三とが、東北飢饉地方を見学に行った。私は断片的にではあるがいろいろ感銘のふかい話を聞いたが、その中で特に心に銘じたことが一つあった。それはあちらに行って実際に見れば、よきにつけあしきにつけ東京にいて聞きしにまさる有様だが、同じ稗《ひえ》を食っている村の農民でも、そこに農民組合のあるところとないところでは、若い農民はもとよりのこと、老人連でさえ全く元気が違う。同じ稗と木の実、松の皮を食いつつ組合のあるところの村の農民は、顔色までいくらかましであるので、非常に考えさせられ、感動したという話なのである。
 私にとって、これは忘られぬ話となった。大衆の自発的な力はすっかりつぶれてしまったように思われ、思わせられている今日、この話は深い教訓をもっている。我々をつき動かす内容をふくんでいるのである。
 足かけ三年前、『働く婦人』という婦人のための雑誌が出ていた時分、一般の婦人雑誌がとりあげるに先だってそこの婦人の記者が東北飢饉地方を視察にゆき、その記事を連載したことがあった。現実を正しく反映するそういう種類の婦人雑誌がなくなることも、今日叫ばれている身売り防止事業の本質を理解するとき、改めて私共にうなずけるのである。
 先頃新聞に、飢
前へ 次へ
全5ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング