ればならない」に傍点]もの」の実体については、こまかにふれられるべきだけれども、ここには省略する)の統一のモメントは、政治生活と文学生活の二重性――党的生活と小市民生活の二重性を、そのまま二枚かさねとして肯定するだけのところには見出されない。こんにち、政治の優位性ということを苦しいまでに素朴に解釈している部分がある。そのずれで苦しんでいるのは熱田五郎氏ばかりではない。その政治の貧困さを補充してゆくためには、民主的な政治そのものの具体的な成熟が期待されると同時に、文学は文学の側から自身の独自性のうちにより人間らしい政治性を豊富に発育させ、政治の多面性を証拠だてても行かなければならない。それは作家の資格においてこそわたしたちが理解していなければならない当面の仕事だと思っている。したがってわたしだけが特権をもっている者らしく云う平野氏の前提は根拠がない。よりどころのない前提の上に、手のこんだ話が展開されても、それは生活の真実でもないし、文学の現実であるとも云えない。
共産党は、対外的なジェスチュアとしてだけ文化綱領をかかげ、文化政策を云々しているのだろうか。わたしはそうではないと考えている
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