。こんにち、真実をもって努力しているすべての人々の文化的業蹟、仕事ぶり(それは党員である文化関係の人々だけに限られていない)そのものを援助し、新たな展開、精神の成長の可能をこの社会の現実の中にうちひらいてゆくのが、党としての責任だろうと解釈している。そのような文化上の責任に対して、直接党にむすばれている学者・芸術家はまず自分たちの生きかたと仕事のやりかたそのもので、よりひろい一般的な可能が開かれ、その具体的で妥当な前進の方法が普遍化されるために骨を折らなければならないのだと思う。
平野氏は、この数年来、民主主義文学を語るとき、小林多喜二を語るとき、党について語るとき、一種の圧迫的なコンプレックスから身をほごしかねている。情報局につとめていたことは、まのあたり平野氏に、天皇制と軍国主義の至上命令の兇猛さを示しつづけただろう。そこにつとめながら、そこの仕事を批判していた消極的な自虐性は、平野氏の心理に痼疾的なぐりぐりをこしらえたかのようだ。民主的政治にも、民主的文学にも、おしなべて懐疑的であり、それを存在意義としている氏が、一人の作家に対して、何か癇にさわっている主観の角度から批判を加えようとするときには、日ごろ氏が躰をふるわすほど反撥している部分の、あらっぽい官僚主義的な考えかたや、まちがった政治主義の解釈そのままを借りて来て攻撃の武器としなければならないとは、何たる自己矛盾だろう。
その上、『新日本文学』の「平和運動と文学者」のなかに、キドウセイを軌道性と誤記した筆記のあやまちが、そのまま校正からもれていたことは、平野氏の話を一層おかしなものにした。わたしのあの話の十一頁十二頁とよめば、キドウ性は機動性であることが察しられないことはないと思う。少くとも、これは変だ、と思われたにちがいない。変だと思うとき、ひとは、それが変だからこそ、誹謗に都合がよいとして、それをつかうだろうか。――まして代議士のやりあいではなく、文学について語る場合、平野氏が、軌道性[#「軌道性」に傍点]なんとは変だ、おかしいと云いながら、評論家としての心の働きを、強引なその変さの活用に駆使して、わたしという生きているものの体の上に、あれだけ縦横な軌道《レール》を敷いたことは、わたしをびっくりさせた。民主主義文学の話のときは、口述や速記の中の一つの誤記が、ときと場合でどういう怪物としてつかわれる
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