人間虐使の残像がある。戦争の永年、軍隊の指導部員としての生活をして来て、軍規の野蛮さ、絶対命令に対するはかない抵抗としての兵士たちの仮病を見破りつづけて来た人々。死ぬものを「一丁あがり」と看守がいうような牢獄生活をつづけて来た人々。そういう不幸な痕跡をもった人々がきょうの情勢を主観的にせきたって判断すれば、病気だといっても、何だその位という気風もおこるだろう。外へも出られないというのが本当ならどうして小説が書けている、と特高の論法になるかもしれない。
わたしにどんな一つの特権があるのではない。わたしはわたしとして基本的な人間の権利を明らかにしているだけである。むごさという感覚をとりおとした人間消耗の気風には承服しないでいるのである。
病気は病気であるという事実にたって処理しながら、わたしが仕事を中絶しないのは、階級的な「作家の資格において」民主革命の課題は文学の仕事そのものによってどうこたえられてゆくものか、革命を人間の事業としてどのように肉づけ得るかという一つの実例を発見したいと思っているからである。書きたいものと、書かなければならないものと(「書かなければならない[#「書かなければならない」に傍点]もの」の実体については、こまかにふれられるべきだけれども、ここには省略する)の統一のモメントは、政治生活と文学生活の二重性――党的生活と小市民生活の二重性を、そのまま二枚かさねとして肯定するだけのところには見出されない。こんにち、政治の優位性ということを苦しいまでに素朴に解釈している部分がある。そのずれで苦しんでいるのは熱田五郎氏ばかりではない。その政治の貧困さを補充してゆくためには、民主的な政治そのものの具体的な成熟が期待されると同時に、文学は文学の側から自身の独自性のうちにより人間らしい政治性を豊富に発育させ、政治の多面性を証拠だてても行かなければならない。それは作家の資格においてこそわたしたちが理解していなければならない当面の仕事だと思っている。したがってわたしだけが特権をもっている者らしく云う平野氏の前提は根拠がない。よりどころのない前提の上に、手のこんだ話が展開されても、それは生活の真実でもないし、文学の現実であるとも云えない。
共産党は、対外的なジェスチュアとしてだけ文化綱領をかかげ、文化政策を云々しているのだろうか。わたしはそうではないと考えている
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