かを学んだ。
 彼の聴衆や読者というものは、『新日本文学』などを決してよむことのない人たちとして、平野氏は、ああいう話しかたをしたのだろうか。わたしが「討論に即しての感想」「平和運動と文学者」「その柵は必要か」などを一貫して、新しい文学のために何を求め、どういう傾きとたたかい、どの方向に統一を求めているかということは、実際によめば、その言葉をひいて平野氏がわたしを非難していることのあたっていない現実を示すことができる。
 作家は、むき出しに生きて、その仕事は客観的なものとして人々のなかに送られている。どのような批判もあり得る。しかし、評論家が一人の作家について、何か本質にふれた点で語ろうとするときには、少くとも、話がそこからはじまるようなその作家の書いたものについては、その全体を一つの文学的現実として読みとるのが当然な態度である。一つの書いたもののなかから、偶然の誤記を機会に、書いてあることとはまるで方向のちがった結論をひき出して、自身のコンプレックスを展開することは、公正でないし、文学というものの客観的な真実を尊重する本質もふみにじっている。
『近代文学』十月号の話で、平野氏は雲にのった孫悟空のように、自身をあらわしている。いまそこにある一つのことでわたしを非難したかと思うと(作家らしすぎるということで)、翻って、わたしが非難されたそれとは正反対のものであるとして(わるい意味で云われている組合の指導者)逆から非難する。このわざは、言葉のあやをかいくぐって連続的に行われているが、たとえばその足許の雲となっている一つの誤記が、誤記とわかってしまったとき、孫悟空の雲は消散して、さて一場のてんまつはどうなるだろう。
 文学のことは、それについて話したいことを話すひとのものだけではなくなって来ている。
[#地付き]〔一九五〇年一月〕



底本:「宮本百合子全集 第十三巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年11月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十一巻」河出書房
   1952(昭和27)年5月発行
初出:「近代文学」第五巻一号
   1950(昭和25)年1月
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年4月23日作成
青空文庫作成ファイル:
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