にじかにぶつかれ、と云う声もあるとき、こういうのは愚劣な重複のようにも見えるが、今日あるなりの作家として現実にじかにぶつかれとだけ云われていることと、先ず作家としての自分を、その歴史性の自覚を、現実の中で見直す、ということとは、案外に深い開きを含んでいる二つの別なことだと思う。人生と文学との脈うちは、事象の連鎖にだけあるのではなくて、その事象が人間にもたらすもの、更にそれを、損傷や痛恨をさえ人間の真実の豊富さへの糧として人生へおくりものする、そのつながりの切実さにあると思われる。報告文学が、きびしい時間の篩《ふるい》を忍ばなければならない機微がここにもある。
「チボー家の人々」の第三巻「美しき季節」(上)を読んで、いろいろと今ふれて来たことにもつれて考えられていた或る日、中野重治が来て、その話が出、彼は「あの第三巻をよむと、マルタン・デュ・ガールという作家は果してほんとに偉い作家なんだろうか、どうだろうかと思うね」と云った。「やっぱりそう思った?」そう云って顔を上気させたのであったが、ここに又作家としてのデュ・ガールのなかなか面白いところもあるのではないか。
第一巻、それから第二巻。
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