ている心、それはこういう心なのではなかろうか。そうだとすれば、人情風俗のあらましを、よしやそのはしり[#「はしり」に傍点]のところでつかまえて作品に料って見ても、求める何かはみたされない。野望ある作家が、現実に対する自分のある態度を強烈な線で描き出しても、やはり渇いた心は、それではないものを、と求めて叫ぶであろう。作家は、私[#「私」に傍点]というものを改めてつかまえなおして、その門から今日の歴史の複雑多様な波流の中へ、沈着剛毅に現われ出なければならないのではなかろうか。高速度カメラが夢中で疾走する人体の腿の筋肉をも見せる力をもっているように、こうして動きつつ、動かしつつ、動かされてもいる私[#「私」に傍点]たちの生活図を、野放図な刷毛使いでげてもの[#「げてもの」に傍点]趣味に描くのではなく、作家自身の内外なる歴史性への感覚をも、活々と相連関するものとして作用させつつ、描き出さなければならないのではないだろうか。
 それには、やはり作家が、文学の領野の内でのあれからこれへの探索から、もっとじかに人生を素朴に浴びなければならず、生活そのものでむかれ新にもされてゆかねばなるまい。
 現実
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