えつづけて来ている作家が、作家生活の時期時期によって何処で所謂《いわゆる》小説の鬼神をつかまえて見せるか、そのこともやまも知りきっているひとが、今日は小説らしい小説を書いていずに、現実にいきなりぶつかって行けというようなことを云っていられたりもするのだろう。
 いろいろな作家によって、散文精神ということも云われている。だが、面白いところは、今日文学に求める何かを切実に感じて胸にもっている多くの人々は、いろいろの作家がいろいろの表現でそれぞれの探求を表現しているのをもちろん注意ふかく、敬意をももって見守ってはいるのであるが、しんのしんのところでは、漠然と、その道から来るものがあるだろうかという疑いを払いのけ切れずにいるところであると思う。
 中堅と云われ、旺に作品活動をしながら今日のこういう要求に身をさらしている作家たちの在りようは、いずれもなかなか野望に満ちているし、文学上の身ぶりも大きく、埃も泥も物かはという風であるが、それが猶且つ、文学に何かを求めている今日の感情に対してはそれぞれの作家そのひとひとの作家的な身ごなしという印象を与える範囲にあるのは、何故であろうか。ああ、ここにこれ
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