味での生活の中からもたらされ、再び生活へ何ものかをもたらして返るものであるからには、この関係の中からどんなにしても作家自身を消してしまうことは出来ない。十九世紀のフランスの文学者の或る人々は、当時の科学的研究の発展進歩に瞠目して、自然現象に対する科学の方法をそっくり人間社会の描出にあてはめようとして、人間的現実と文学作品との間から、最大の可能まで作家の存在を消そうという努力を試みたことがあった。この自然主義の試みは健康な一面の功績を残したが、今日では常識のうちの理性が成長しているから、自然現象と人間の社会現象の質のちがい、そこに関係して行く人間の意味の相異もはっきり区別されて理解されている。
 従ってどのような作家が、どのような云いまわしで表現しようとも、生活の現実と作品との間には作家がいて、作家一人一人が既に何かの意味で社会的な存在なのだから、その間にあっての作用も社会的な様々の性質を帯びずにはいられまいことを知っているのである。現実にわが身を投じると没我の表現で云っても、客観的には却ってそこで作者の主観が最もつよく爆発する場合が多いことをも知っていると思う。
 近代日本の文学の中に長い伝統をもっていた私小説というものが、その主観性のせまい枠と同時的なリアリズムの限界の面から否定をもって見られた当時、そこからより広い生活感と文学とへ出るためには、当然の経過と考えられる方法、私小説における私の究明発展はされなかった。その困難な仕事に比べると、各作家の内部の現実にとってもずっと手軽で耐え易く、即効的である題材での打開策、というより、やや彌縫の策がとられたことは、その後の二三年間に他の事情とも絡んで文学を非文学的なものにする多くの危険の遠因となったとともに、今日、改めて人々の心に文学とは何であろうかの疑いを呼びおこす隠微な、しかも本質的な動機となっていると思う。
 自分がこの世に生れ合わせ、数々のよろこびと悲しみと時に多くの憤りを感じ、あれこれのいきさつの裡に二度とはくりかえすことのない生涯を生きるという感想は、誰の心の中にも一言につくし得ぬ思いをあらしめる。その思いを犇《ひし》と感じその思いのうちに日夜行動しているのが外ならぬ自分であるが、一人の人間としての自分というものは、時代や境遇、性別などと極めて具体的な内容に充たされており、私[#「私」に傍点]という平凡そうな
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