三つの音の中には縦横十文字に歴史の波がうちよせ、さし引いている。一つ一つの私[#「私」に傍点]はそのようなものとしての私[#「私」に傍点]のありようを生涯に只一遍も自覚しないということはないであろう。在来の私小説はその発生の必然から、私[#「私」に傍点]は常に単数でしかあり得なかった。今日の生活の感覚は、私[#「私」に傍点]をもっと拡大しており、又複数にもしている。私[#「私」に傍点]たちと云わず、あり来った通りに私[#「私」に傍点]と云っても、その実質を成り立たせている社会要素は、複数としてしかあり得なくなって来ている。
この現実では作家と云われる人々の私[#「私」に傍点]の実体も元より同然の組立てになっている。そして、現代のような時代を生きる人々の心には、自分たちの生きて来た日々、生きている刻々、生きるであろう明日について、ひっくるめてこの人生のあるありかたについて、生き、そして死ぬということについて、つくづくと眺め、わかり直し、再び感じ、自分自身に納得してみたい心持があるのだと思う。これには、文学しかなく、文学も小説しかないと云えるくらいのものである。
今日の文学に何かを求めている心、それはこういう心なのではなかろうか。そうだとすれば、人情風俗のあらましを、よしやそのはしり[#「はしり」に傍点]のところでつかまえて作品に料って見ても、求める何かはみたされない。野望ある作家が、現実に対する自分のある態度を強烈な線で描き出しても、やはり渇いた心は、それではないものを、と求めて叫ぶであろう。作家は、私[#「私」に傍点]というものを改めてつかまえなおして、その門から今日の歴史の複雑多様な波流の中へ、沈着剛毅に現われ出なければならないのではなかろうか。高速度カメラが夢中で疾走する人体の腿の筋肉をも見せる力をもっているように、こうして動きつつ、動かしつつ、動かされてもいる私[#「私」に傍点]たちの生活図を、野放図な刷毛使いでげてもの[#「げてもの」に傍点]趣味に描くのではなく、作家自身の内外なる歴史性への感覚をも、活々と相連関するものとして作用させつつ、描き出さなければならないのではないだろうか。
それには、やはり作家が、文学の領野の内でのあれからこれへの探索から、もっとじかに人生を素朴に浴びなければならず、生活そのものでむかれ新にもされてゆかねばなるまい。
現実
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