が、とめぐり合いのよろこばしい感じで心を打って来る刹那の瑞々《みずみず》しさは、作品の世界の一般に欠乏している。
 ここには簡単に云いつくされない、幾つもの条件がたたまって来ていると思う。
 二三年前に、過去の身辺小説の狭さがとりあげられ、そこからの脱出として、よりひろい社会的な題材へ一部作家の関心が向けられて、少しそういう作品が出かかったとき、事変になって、急速に周囲の調子が変った。題材から云えば、そのまま一層ひろく、ひろくと拡がってゆき、拡りかたは如何にも惶《あわただ》しかったが、程なくその奔走の姿も新しい看察を伴ってみられるようになり、現在ではあれこれ表面的な題材に拘泥せず、今日の荒い現実のなかへ作家は身ぐるみとびこんで描けという気風にあると思う。
 長篇・短篇と形の上での区分けが枝葉であるということも、作品の持ち味だとか、境地だとか、そんなものの翫味に散文としてこの小説の精髄はないと云われることも、それとして聞けば十分うなずけると思う。古来、本当に人間の肺腑にふれた文学作品で、ただの持ち味だとか主観的な境地だとかをよりどころとしてかがまっていた作品は一つだって無いことを、誰しも読んで感じて来ているのである。それらの人々は、作家の現実にとび込んで描くと威勢よく云っても、只所謂ありのままを写したところでそれは芸術ではなかろうし、と思い、第一、どこまでありのままが描けるのだろうかということにも今日では作家と同じくらい実際的な眼くばりを持っている。作家が身一つで現実ととり組むというとき、その身一つがぎりぎりのところで結局わが身[#「わが身」に傍点]一つである以上、そのわが身を我れとどう見て扱っているのだろうかということも、身につまされて自然の心がかりとなって来る。これらは総て、求められている或るものを射ようとして弓弦から作家によって放たれている箭《や》であるが、今のところ、一本も的は貫かず、そこに焦燥がかくされている。身辺小説、私小説からの蝉脱の課題がおこった当時は、文学作品の単行本がちっとも売れないという顕著な現象を一方に伴っていた。今日では、単行本の売れゆきは激しくて、インフレーションをおこしている一方に、そもそも文学とはどういうものなのだろうかという一層根本に立ち入った問いを人々の心によびさまして、人生と文学との課題が甦って来ているのである。
 文学が広汎な意
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