似た演劇団が生れるかもしれない、そういうところへまで思いをはせれば、「雲の会」もそれとしての限界のうちに、おのずから一つのフェノメノンであり得るかもしれない。
 だが、芸術の本質からいまの文学のゆがみを照し出そうとするその企ての第一着である「キティ颱風」は、自他ともにあれでは駄目なものと考えられ、「芝居というものはあんなものでは困ると思う」(小林秀雄)と座談会で語られて、その言葉は笑声とともにうけがわれている。作者自身によって「キティ颱風」には「日本人の、たとえば社会性のなさとか、その他色々な弱点が皆出ている訳です。」と云われている。「つまり芝居に成りたたないような日本人の生活や心理の弱点を、皆まとめて芝居にこしらえちゃったものなのです。従って、あれは一度っきりのもので、あとはあの手ではゆかないし、あれではほんとうの芝居というものではないと思うのです。」
 これを客観的に云いあらわしてみると、「キティ颱風」はいまの文学のゆがみに解決の方向を示した作品ではなく、社会と文学にあるゆがみそのものを反映したにとどまる、という自己批判としてよみとられる。

 伊藤整は、「芸術の本来の性質から、」「日本の実作家のペンと紙との間に入りこんで、そこでの結びつきなる創作行為そのものを変える」何かの歯車の発見について、不断の関心を示している作家の一人である。「イデエ・近代の論理、人間の組み合わせかたとしての秩序の認識のないところでは、皮膚感覚と暴力のみが実在する。その二つのものの合成である現在の日本文学は、日本そのものの、反映なのだ」、カミュの「ペスト」、オオウェルの「一九八四年」、ゲオルギゥの「二十五時」などが、日本の中堅作家と同年代の外国作家の手になるものであることを見れば「明らかに盲目と無力という言葉が日本の作家に冠せられても仕方がない」(「歯車の空転」)伊藤整のこの感想は共感される。彼に「いまの文学のゆがみ」は明らかに意識されている。「芸術の本来の性質からいまの文学のゆがみを照し出そうとする企て」をもつ作家の一人である。いまの文学のゆがみそのものを、その一文の中でアクロバット風に表現しているにすぎないことを痛ましいと思う。一人の作家伊藤整がいたましいというような高飛車な感想ではなく、日本よ! こういうもの云いのある一九五〇年の日本よ。小説を書くかかないにかかわりなくそこに生きて
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