いるわたしたちみんなよ! と痛ましいのである。
近代的な小説の成立という問題を、わかりやすく、しかし情熱をもって、わたしどもの生きているきょうのこころに引きつけて吟味しようとする意欲は、抑えがたい。こんにち、「明らかに盲目と無力という言葉が日本の作家に冠せられても仕方がない」にしろ、「日本の芸術の基本的方法はイデエの根をもたぬ感覚によるのだから、近代風なイデエの操作と実作とは歯車が合わないのだ」(同上)という、現状解明の場にとどまりかねる思いがある。「巨大な冷酷な秩序のヒダにはさまれてもがく虫のような存在として自己を意識し」て、そこに伊藤整の人間及び文学者としての存在感が定着しきれるものならば、どうして彼自身、きわめて具体的なファイティング・スピリットをもって「チャタレー夫人の恋人」の告発状の中には、検察当局がその作品をちゃんとよんでいない節があることを公表するだろう。ヒダにはさまれてもがくどの虫も、権力によって発せられた告発状そのものが、訴訟法に反してつくられているという事実をもって、法廷にたたかう決意を示したためしはない。
戦争に反対し、戦争の挑発に抗議する現代人の要求は、ほとんどすべての文学者の心底にある。しかし、平和愛好の公然たる意志表示、何かの行動にあたって、政治的になる[#「政治的になる」に傍点]ことは、意識してさけられつづけている。「チャタレー夫人の恋人」の起訴問題は、一面ではそのようなこんにちの日本の文学者の社会行動に関連してきわめて意味ふかい他の一面を語っている。
「チャタレー夫人の恋人」の問題に関して、一部には、つまりは、翻訳家たちに共通な経済問題の擁護である、という解釈がある。こういう経済主義的な考えかたに、わたくしはくみすることができない。また、「皮膚感覚」によって創作している日本の作者にとってひとごとでないからだという、シニズムにも賛成しない。「チャタレー夫人の恋人」の問題で、日本の文学者が総立ちになったとすれば、それは、人類の理性の防衛であり、権力の暴威に対する人間、文学者としての抗議である。そこに文学者として文学者でない一般社会人にアッピールしうる大義名分がある。その大義名分によって、文学者たちも市民として、事実にもとづかない根拠によって圧迫して来る法律とたたかう必然が人々に共感される。文学者と世界平和運動というスケールでは、その
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