傍点]非常に便利なものだと思ったし、それから、そういうものを足掛り、手掛りにし、中心にして、まだ形をなさない日本の小説に形を与[#「日本の小説に形を与」に傍点]えてゆく――大体そういう気持なのです」(同上)
 福田恆存も、芝居が「便利なもの」であるという見解では三島由紀夫とほとんど一致している。「小説の場合には、ウッカリ我々がゴマカされているものが演劇の場合にはゴマカシがき[#「ウッカリ我々がゴマカされているものが演劇の場合にはゴマカシがき」に傍点]かない。そういう点が『便利なもの』である。」「現代では文学や小説が段々平面的になった」それの「立体化ということは、ある意味においては、全人性の獲得ということとも通ずるのではないか」(同上、傍点筆者)「雲の会」という名も、おそらくは、ギリシァ喜劇「雲」への連想に由来しているのだろう。
 こんにちの日本の社会では、現代人の発想として、さまざまの具体的な試みが活溌に実行[#「実行」に傍点]されてこそ結構な時期である。まして、すべての新劇団が、一九五〇年は五・六月ごろから著しく財政困難に陥って、熱心で技量のある俳優たちが無給で奮闘している現在、芝居に新しい息吹きが加えられることになれば、それはいいことだと思う。ジャーナリズムのるつうさ[#「るつうさ」に傍点]と「非常に職業化して来ている日本の小説壇」(小林秀雄)の気風に虚無感を誘い出されて、小説が「拘束」をもっていないということに苦しみはじめた若い能才の作家・批評家たちが、「ゴマカシの利かない」演劇へ新しい芸術意欲をかけて行こうとすることも、そう感じている人々にとっては無意味でなかろう。(もっとも小説や評論が、そんなにゴマカシのきくものであり、そのように様式からの拘束がないと、もてないものであるという感覚そのものが一つの異常であるが)
 その結果いかんにかかわらず、「雲の会」のような脱出の角度と形態は、その会にあつまった人々に種々の試練を与えて成長させるか、或いは空中分解をさせてしまうかするであろうほかに、直接その会に関係をもっていない一般の人たちに、多くの問題を示唆する。そして、たとえ「雲の会」そのものが地上にふかく舞い下りて、地の塩とならないにしても、その刺戟から更に新鮮な機運がわき出て、一九三三年ごろエリカ・マンがナチス政権のもとで組織していた「ペッパーミル」(胡椒小舎)に
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