人間の結婚
――結婚のモラル――
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)雹《ひょう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)妻|諸共《もろとも》、
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)家庭のしきたり[#「しきたり」に傍点]という
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きょう私たちが、結婚や家庭というものについて持っている大変複雑な感情や問題の本質はどういうところにあるだろうか。一言にいえば、これらのいきさつの総ては第一次世界大戦後の二十五年間に世界のあらゆる国々で、婦人もだんだん、男子と同じような角度から結婚や家庭の問題について理解しはじめたということだと思う。昔から結婚をして家庭をもって数人の子供の父親になるということだけを、男子一生の天職と思った男はなかった。そう教育される男の子たちもなかった。最も卑俗な親たちでさえも、男の子に向っては「世の中の役に立つ人間」になるようにと教えたし、何かの形で親の生涯よりも発展した、男としての一生を期待した。その場合、よい妻を持ち、よい子を持つということは男の一生の自然におこる事情への希望として語られた。よほど卑劣で妻の親の財産や地位を自分を養うために利用しようと思うもののほかは、社会的に活動する男の生涯の一面として結婚と家庭が考えられてきている。
今日の少しものをかんがえる若い女性たちの心の中に、結婚と家庭というものが何時の間にか女性の生涯の解決ではなくて、それが彼女の夫になるべき青年たちの感覚の中にとらえられているとおり、彼女たちにとってもやっぱり女としての社会生活の一面であるというふうに思われてきている。よしんばそれが、彼女たちの人生の十分の八迄の部分を占めるとしても、後の二分は疑いもなく結婚をして家庭をもって母ともなり、それらの経験で成熟して行く女性としての人間性からこの社会に何かを貢献したいと思いはじめている。これは当然なそして自然な女性の社会的感覚の発展である。それだのにこの当然さ自然さのために、今日総ての未婚と既婚の真面目な女性たちが、言い尽せない複雑広範な問題を日々の中に感じている。これはどういう訳だろう。
人間が極く原始な集団生活を営んでいた頃、そこにどんな恋愛と結婚のモラルがあり、家庭のしきたり[#「しきたり」に傍点]という考えが存在していたろう。女も男も獣の皮か木の葉をかけて、極く短い綴りの言葉を合図にして穴居生活を営んでいる時代に、原始男女の世界は彼等の遠目のきく肉眼で見渡せる地平線が世界というものの限界であった。人類によって理解され征服されていなかった自然の中には、様々のおそろしい、美しい、そしてうち勝ち難い力が存在していて、嵐も雹《ひょう》も虹もそこに神として現れたし、彼等の体を温めたり獣の肉をあぶったりする火さえもその火が怒れば人間を焼き亡す力を持っている意味で、やはり神であった。神や魔力は水の中にさえもあった。あんなに静かに流れ、手ですくっておいしく飲めるその水が、天からどうどうと降りそそげば、彼等の穴ぐらは時々くずれたり狩に行けないために飢えなければならない時さえあった。未開な暗さのあらゆる隅々に溢れる自然の創造力の豊かさを驚き崇拝した原始の人類にとって、自分たちに性の別があってその結合の欲望は押え難く彼等を狂気にし、その狂気への時期が過ぎてある時がたつと、女の体は木の実のように丸くなってそこから人間そっくりの形をした小さな人間が現れて来るという神秘について、彼等は絶対の驚きをもっていた。太陽や月のように、人間を支配する性の力を崇拝した。原始社会に広く行われた信仰の一つである性器の崇拝は、人間創造の自然力に驚嘆した我々の祖先の率直な感情表現であった。
こういう時代には人類の男女は生物的に自然に従えられていただけであった。だから山の獣が自然の魅力で異性を見出し、それに引きつけられて行く限りでは、そこには人間の雌である女があり、人間の雄である男が存在するばかりであった。家族関係というふうのものも近代の意味では確立していなかったから、互いにとって親族的な縦横の関係は無視されていた。いいかえれば、母、姉、妹の関係が明瞭でなくて、そこには若さの差別のある女が存在したばかりだったし、それらの女にとって父、兄、弟という存在はやっぱり若さの違う男の存在として現れた。今日、私どもが考えているよりも遙かに長い歴史の時間に渡って人類のこういう原始的な性関係があったらしい。こういう関係の中では、性格とか気質とかいう問題はあり得なかった。人間そのものが性格を持つまでに分化発展していなかったのだから。
ひき続いて母系の時代が現れたことは周知のとおりである。続いて人類社会の生産の様式が発達し、奴隷が出現し、財産というものが社会に存在するようになるにつれて、そのふやし手であり護り手である男の父系制度が確立してきた。最近までの日本のように強い封建性の影響の残っている国では、父権は悲劇的な威力をふるって一家を支配した。父権につれて尊重され始めた家系というものがその利害や体面のため、同族の女性をどれほど犠牲にして来たかということは、日本の武家時代のあわれな物語の到る所に現れている。ヨーロッパでも家門の名誉ということを、その財産の問題とからめて極端に重大に視る習慣のあったスペインやローマの貴族の間でどんなに悲劇があったかということは、「ローミオとジュリエット」一つを見てもよくわかる。スタンダールが書いている「カストロの尼」のおそろしい物語は、結局はローマ貴族の家門の悲劇であった。同じスタンダールの「パリアノ公爵夫人」という美しくもの凄いロマンスは十六世紀のイタリヤ法王領内で起った悲劇であった。これらの中世のおそろしい情熱の物語、情熱の悲劇は、当時絶対の父権――天主・父・夫の権力のもとに神に従うと同じように従わなければならなかったスペインやイタリヤの女性たちの胸の中に、もう「人間」が目覚めはじめてきていた証拠である。教会と父権とが彼女たちに与えた現世の主である夫に対して、彼女たちは厳しくしつけられていた通りに貞潔の誓を立てながらも、もう唯の雌ではなく人間の女性となってペトラルカの詩も歌うようになっている。彼女たちは自分たちの生涯にとって不幸にして幸福な瞬間として、良人以外の男性に好もしさを感じることを押えきれなかった。近松門左衛門は彼の横溢的な浄瑠璃の中で、日本の徳川時代の社会の枷にせかれて身を亡す人間らしい男女の愛の悲劇を歌った。カルメンの物語でばかりスペインを知っている人々にとって、またダンテとベアトリチェの物語だけでイタリヤの心を知ったと思う人は、これらの国々で不幸な愛人たちが自分たちの幸福への願望と共に流した血潮の多量なことに心から驚かずにいられないだろう。こういう事情の中では結婚も家庭も母となることさえも天主の定め給うた「運命」として受けとられた。人間らしい自発的な選択や愛の歓喜や母の喜びなどというものが、万一「家門」の必要と一致するようなことがあれば、若い女性はその意外さに寧ろおののいたであろう。
封建社会は徐々に近代の資本主義の社会に発展してきた。新しい社会のエネルギーに対して、その経済的活動の上にも、政治生活の上にも絶対の権力をふるってきた僧侶貴族一家一門の首領たちの権威は、彼等のやり方と共に若い時代にとって重荷になってきた。発展を阻むものになってきた。近代の歴史の担当者として現れたブルジョアジーは、王権を否定して市民(ブルジョア)の権利を確立すると共に、ルーテルを先頭に立てて、法王に統率され経済的政治的に専制勢力の柱である天主教の仕組を否定した。そして、市民一人一人の精神の内に在る神としてのキリスト教新教を組織した。そして権力のために犠牲にされることのない市民の個々の家庭の尊厳を主張しはじめた。同時に両性の清らかな愛による互いの選択と、その神の嘉《よみ》し給う結合の形としての結婚を主張した。
ところでこの「神聖なる結婚」「純潔なる家庭」といいながら、資本主義社会の冷酷な利害関係と、持つ者持たない者との関係によって、現実にはどんな矛盾がそこにあらわれたかということは、夏目漱石が深い知識と研究で物語っているイギリスの十八世紀の文学史を見るとよくわかる。世界で最も早く産業革命を行い、市民の権利を確立させたイギリスは、新教の本場となった。従ってイギリスでは、特別にこの神聖な結婚と純潔な家庭生活という観念が流布して、偏見にまで高まった。その「神聖な結婚」はどんなに多くの場合男女双方からの打算を基礎にした選び合いであり、時には「買いとられた花嫁」を教会が「神聖な結婚式」で祝福していたかということはイギリスの有名な諷刺画家ホーガースの作品に辛辣に示されている。中流的なイギリス人の家庭で体面と打算とを両立させた「ちゃんとした結婚」をするためにどんな滑稽なひそひそ騒ぎが演じられるかということは、ジェン・オースティンの作品を見てもわかる。彼女の書いた「誇と偏見」は彼女のような所謂《いわゆる》ちゃんとした「淑女」でさえもどんなに「ちゃんとした結婚」への騒ぎに対しては皮肉と憐憫とを感じていたかを語っている。またイギリスの最も傑出した作家の一人、サッカレーの作品はその傑作「虚栄の市」の中で、光彩陸離と、なり上り結婚のために友情も信義もけちらかして我利をたくらむやり手な美しい女性を描いた。家庭の純潔が言われても、社会がこれらの家庭の純潔を全うさせるだけの条件を一つも備えていなかったことはオルゼシュコの「寡婦マルタ」の哀れな生涯がまざまざとしめしている。それどころか近代文学の殆んど総てはこの近代の神聖な結婚と純潔な家庭生活等をひっくり返した側から取り上げているのは何故だろうか。
結婚と家庭について、そして女性について、近代には二つの考え方が出来た。その一つは、所謂「神聖な結婚」「純潔な家庭」というものを承認しようとしながら、資本主義の現実社会が齎す醜悪さと偽善とに反撥して、ロマンティックに両性問題を考えようとした傾向である。私たちは聞いていないだろうか。人類は初め男女共分れていない一対の者であったが、それが或る時男と女とに分れてこの世に生れなければならない廻り合せになった。それだから男も女も互いに本当の自分の半身を見つけ出そうとして、完全な愛を求めて果もなく彷徨《さまよ》う悲しい宿命がそこから生じているのだと。
こういうロマンティシズムに対して、近代精神の特長である現実に対する追求力リアリスティックな探求心は驚くべき熱中と執拗さをもって、恋愛と結婚と家庭の「神聖」の仮面をはいだ。モーパッサンのほとんど唯一の傑作である「女の一生」を読んだ人は、その昔騎士道が栄え優雅な感情を誇ったと云われているフランスでも、「女の一生」はあんまり日本の無数の女の一生と同じなのに驚くだろう。トルストイは「結婚の幸福」その他で結婚生活の無目的性と生物的な本質を、きびしい自分への批評をこめて描いている。「戦争と平和」の中であの特徴のある敏感な可愛いナターシャが、当時(十九世紀)のロシアの上級階級のいざこざの間に幾つかの恋愛を経験しながら最後はピエールの妻となって、だんだん鈍感になり、ふとり、次から次へと子供を持って歌いもせず考えもしない客間と子供部屋だけの存在となって行く過程を、トルストイは何と鮮かに追跡しているであろう。「アンナ・カレーニナ」が偽善的な上流社会の結婚の枷と上流婦人の無為な生活の中で、彼女の豊かな活力と可能性を受け止めるだけの人間としての力を欠いたウロンスキーへの情熱にばかり生存の意味をより縋らそうとして、遂に幻滅から死をえらんだ成りゆきも、トルストイは決して単純に良人以外の男を愛した妻の悲劇として書いたのではなかった。もっと突込んで、痛烈に、愛の無い冷酷な社会的偽善としての結婚の形態の内幕と、無方向に迸る激しい愛の渇望の悲劇を描いたものであった。トルストイが彼の貴族地主としての生活環境の中で、結婚と家庭生活の実体を厳しく省察したと
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