き、人道主義的な立場からそれを懐疑したのは当然であった。彼は一組の男女が人類的な奉仕のためにどんな努力をしようともしないで、一つの巣の中にからまりあって、安逸と些末な家事的習慣と慢性的な性生活をダラダラと送っている状態を堕落としておそれ憎んだ。そして本当の真面目な結婚生活というものがあり得るならば、それは決して現在の常識がうけいれて習慣としているようなものではなく、夫婦の性的な交渉もまたちがって、はっきり子供を持とうとする責任をもった心の上に立って行わるべきであると考えた。
 こういう宗教的トルストイの考え方と、自然主義の人々或いは二十世紀初期のある種の唯物論者、たとえばイギリスの作家バーナード・ショウなどは、恋愛、結婚、家庭生活などにつきものの、ベールをすっかり剥ぎ取って、全く生物学的な解釈だけに立った。これらの見解の中心点は、恋愛にしろ結婚にしろロマンティックな花飾で飾られたこれらの人間行事は、窮極のところ人間の生物的な種の保存という自然の目的に従ったものであるに過ぎないというところにある。女性は、あらゆる時代を通じてこの「生の力」の盲目的な遂行者で、男性はその自然の目的のために生捕られてしまう。そして本当に自由な人間としての創造的能力の大部分を、巧みで無邪気でしかも自然の悪計に満ちた女性と、彼女の営む家庭、育児室のために浪費させられると考えた。一九〇三年にバーナード・ショウの書いた「人と超人」はそういう思想に立っている。日本でも初期の田山花袋や徳田秋声のような自然主義作家は、両性の複雑な交渉の底に赤裸々な生物的本能だけを発見している。
 資本主義社会の現実が、両性関係に齎しているあらゆる偽善、恋愛と結婚の「神聖」論に対して加えられた唯物論者達の打撃は、決して無意味ではなかった。恋愛と結婚の問題はそれらの論争の時代に、やっと小説と詩と伝説の枠から離れて社会科学の対象となり始めた。そしてこのことは同時に婦人自身の間に、婦人の社会的立場についての反省、省察と、客観的な研究の必要とを自覚させた。このことは婦人が自分達の手で「女の一生」をより人間らしく生きる値うちのある女の一生に変えて行こうとする方向をとった。ブルジョア婦人解放問題はこうして十八世紀末のヨーロッパに擡頭した。
 日本では両性の問題は実に不運な取扱いを受けつづけてきた。社会のあらゆる生活の隅々まで深く封建性の沁み通っている日本では、総ての人が今日寧ろ驚きをもって理解した通り、民法でさえ婦人をおそろしい差別待遇においていた。社会の現実の進み方と、これらの民法はどんなに喰い違っていただろう。今日民法が改正されて婦人の差別待遇が取り除かれたといっても、それでもまだ実際の社会情勢・日常生活の現実にはたちおくれている。今日改正されたような民法は明治三十年の初め、日本が未だ資本主義興隆期に向っていた時代に、ブルジョア民法として福沢諭吉が強く主張していた折に改正されれば、いくらかは社会生活の現実で女性の実際の助力となり得たろう。きょうではあまりおそまきな、結婚の自由、男女平等の財産権、平等の親権、その他いまになって改正された条件は、昔の民法からみれば婦人の解放のモメントをなして出ている。今日長いおそろしい戦争の結果これ程の未亡人と、浮浪児が何んの人間らしい生活へ進む可能性も国家から保証されないで、おそろしいインフレーションの街に放り出されているとき、平等の親権は、何をなし得るだろう。男女平等の財産権が、どこにその基礎になる人民の財産をもっているだろう。もし民法で新しくきめられた婦人の社会的平等、人間らしい対等の権利を具体的なものにするなら、もうきょうの社会のなかで民法の条項が改正されただけでは意味がない。男と女とがその勤労によって生きなければならない労働に関係あるすべての法律で、男女は平等になり女が女であるという意味での母性保護が実現しなければならない。だから、労働組合が、口ぐせのように勤労条件の要求の中に男女平等と母性保護をくりかえしているのは、深刻な現実をてりかえした真実の声である。この要求は、直接職場をもっている婦人ばかりでなく、勤労者の妻、母、娘すべてにかかわる問題である。結婚と家庭の問題にじかにつながっている。何故なら、きょう改正されたブルジョア民法としての新民法を、きょうの現実のなかで一般婦人に実効のあるものとするには、実際の勤労条件の改善に裏づけられなければ、殆ど偽瞞に終らなければならないのだから。
 私たちの今日の生活は破壊と建設の形容出来ない混乱と、それに加えて、民主的推進のきわめて複雑な道の上にある。憲法を見ても新しい「民主憲法」は不思議な矛盾をはらんでいる。天皇というものの全く特殊な規定が、この主権在民といわれる憲法の中にある日本の封建的な尾は、伝統の中に巨龍の尾のようにのこっている。そしてこの尾のうろこのかげにかくれて今日なお国民を破滅させた軍閥ののこりと反動の力がうごめいている。
 そして近頃広く読まれている作家坂口安吾氏は、彼の人気あるデカダンスに封建性への反抗という理論づけをしている。偽善的な、形式的な、人の思惑ばかりを気にしている日本の封建的な社会風習に対して、この作家は「雄々しく堕落せよ」と叫んでいる。様々の、情熱を失った道義観やきれいごとの底を割って人間のぎりぎりの姿を露呈させよ、という。そして肉体の経験、その中でも性的経験だけが信じることの出来る人間性のよりどころ、実在感の基点であるとされている。
 たしかに日本の過去の、そして今日の両性生活は不自然な状態におかれている。不必要なきがねや、くだらない体裁、いやしい常識、そういうものに毒されて掛引と臆測と打算なしの恋愛も結婚も本当に少いように見える。さもなければ住宅問題からはじまるインフレーションの諸悪があらゆる若々しい愛を結実させない。こういう社会の眺めは、よく生きたいと思っているすべての男女の精神を苦しめているし、実現しにくい愛に悶えさせている。この時の、爆発的に言われる堕落せよという声は、多くの人を物見高い心持から引きつける。
 ところで私達は、性的経験の中にだけ人間性の実在感があるという観念について、一つの、まったく単純な質問を出したいと思う。もし坂口安吾氏がいうように、ぎりぎりの人間的存在が性的交渉の中にだけ実感されるならば、何故坂口氏自身、こんなにたくさんの紙とインクを使って、それを小説として表現しなければならないのだろうか。この質問は、単純だけれど深い意味を持っている。何故ならこの文章の始めで私たちが見てきたように、我々の祖先の男女たちは、全く生物的に男と女のからまり合いの中に生命の最頂点の自覚をもってきた。然し、こういう生物的な人々は、小説は書かなかった。唯満腹の後の満足の叫び声としての歌、雌としての女の廻りに近よったり遠のいたり飛び上ったりする一種の踊り、そして最後に彼等の生活の核心であった性的祝典がおかれる。彼等は実際性的行為の中に実在したのだ。坂口安吾氏がそれ程熱中して性的生活の中にだけ人間的実在を捕えると言いながら、その経験に負けない熱中をもって、或いは性的行為の幾倍かの人間的エネルギーを傾けて、それを文学という様式を通じて、仮にも文学作品とよばれるものにして行かなければいられない、その必然はどこにあるのだろう。
 あんまりはっきり現れているこの矛盾について、作家自身はかつて一度も説明を与えていない。作家が答えられないとしても第三者である私達には答えられる。つまり私たち人類は、もう穴居人ではないということである。それが良いにしろ悪いにしろ人類の社会の歴史は数千年経過していて、人類という生物には他の生物にない複雑で綜合的な生活機能が発展してきているという事実である。有名な生理学者パブロフが人間の生理の反射機能の実験を犬によって行い、条件反射という重大な発見を、生物的人間の理解に加えた。パブロフは、犬の実験を通して、人間も犬と同じように一定の条件に対して一定の生理的反射を行うことを見出した。それは生理学の一つの革命であった。パブロフが死んでから何年か経った。そして今日パブロフの偉大な発見の継承者たちは、人間という生物の発展に於ける独特な機能として、パブロフが発見した犬と等しい第一次命令体と共に、もっと深くもっと微妙に人間生活に影響する第二命令体(セコンド・オーダ・システム)のあることを証明した。犬はその餌を持って来る人が何人であろうとも、実験上習慣となっている一定の時間に餌を見れば盛んに反射作用を起して胃液を分泌した。人間にも食慾がある。食べたい時に食物を見れば、反射作用を起して口の中は湿っぽくなる。けれども忘れてならないことは、犬が決して「これは畜生の食い物だ」という感情を知らないことである。犬は食い物の与えられ方によって決して食いたくないと思う程の屈辱と憤りとを感じることがない。人間が人類という生物ではあっても、地面に投げ与えられたものを何でもがつがつ食べる生物ではなくて、人間ばかりが社会生活の発展から生物的な要求としての餌に対する悲しみも、憤りも、誤りも、自覚しているのである。資本主義社会は一日一日と個人の中に人間的自覚を目覚めさせた。犬とは違う餌についての諸感情と判断を目覚めさせている。餌は資本主義社会の諸条件のもとにあって、実に複雑極まるセコンド・オーダ・システムの対象となっている。食糧問題は、今日国際問題であり、政治の問題である。坂口安吾氏の性的経験の中に実在を自覚するという論についても同じことが云える。人間坂口は単に雄であるばかりでは実在しきれない。雄であることだけに実在を包括しきれない。だからこそ、小説として書く。小説は文字標式による精神活動の高度な表現である。近代小説はやっと十八世紀になってその一歩を踏み出したのである。
 日本の婦人は様々の形で非人間的なモラルに縛られてきた。恋愛とか結婚とかいう問題について受身であったばかりでなく、性生活そのものについての理解がほとんど暗黒のまま封鎖されていた。今日一時に扉が開いて、性的な問題は公然と取り上げられ始めたけれども、今日の青春がおかれている事情を見れば、そこにはそれぞれの形での春の目覚の悲劇があるように思われる。用意された知識も分別も無いままに、戦争中のあの楽しさを全く奪われた生活の檻から離され、青春はドッとばかりに溢れ出した。何に向って? どういう喜び? 何をどういう風に建設しようとして? ところがここでも、崩潰された生活安定と楽しさを喜ぼうとする激しい欲望がぶつかっている。はしゃぐことをふざけることをいつも禁じられてきた日本の娘が、今日町で、公園で種々の生活の隅々で、ひたすら笑うことをはしゃぐこと(有閑に楽しむこと)を渇望している姿は、その明暗さの錯綜によって深い問題を提出している。こういう今日の一部の生活感情にとっては「有閑に楽しむ」ことと「堕落を恐れない」こととは自然に結びついている。過去の恋愛だの結婚についての辛辣な罵倒はなぜ彼女たちにとって心よいかといえば、第一目前にそんな美しい恋愛だの結婚だの家庭生活だのがないことを知りぬいてそのことを悲しく思う心を、ふてくされて、居直ってしまっているから。それは親や兄の云いなりに否応なし形ばかり「神聖」な性的生活の、本質には同じような堕落に突き入れられるくらいなら、女も男と同じ感情で、自分から選んだ堕落の道に進む方がまだ痛快なだけましだとする点にあるだろう。
 ところがこの感情の自主的ということにやはり一つの疑問がある。坂口氏のデカダンス世界観の中では、女というものは唯男に対する性器的な存在だけであって、人間としてまた社会生活者としてもっている他の種々の条件や問題は存在しないとされている。もしかりに自主的な堕落の辛辣さを心から感じようとするなら、彼女はこの点で非常に迷惑な堕落論者の独断にぶつかるだろうと思う。何故なら、少くともその女性は人間としての自主的な選択、自主的な好みによって堕落の道をえらび、性的にも結ばれて行こうとしているのだろうのに。
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