堕落において彼女は性器の機能を問われるばかりで、人間の感情としての、特にこれ迄抑圧されていた日本の女としての解放を求める気持からの堕落の適用を問題の外におかれるならば、それは肯定して進める道であろうか。ましてや、性的欲望は、その機能が食慾と同じように、それよりももっと強く人間の社会的な反応であるセコンド・オーダ・システムの影響を受ける。好き嫌いをぬきにしては少くとも自主的な性的機能は発揮されない。好き嫌いの感情を否定した性的交渉というものは売笑にしかない。坂口氏が性的経験の中にだけ実在を把握するといいながら、縷々《るる》とそれについて小説を書かずにはいられない矛盾、撞着が女性を性器においてだけ見るという考えの中にそっくり映っている。そしてそれを発見した時、雄々しく堕落しようとする娘たちは、案外自分たちが極めて古くさい在来りな女の動物扱いにおかれていたことにおどろくのである。
今日、人間の自然な感情とその開花として恋愛や結婚の問題を社会的に考え、判断し、生きようとしている総ての落着いた男女の心は、ここにふれたような現代の矛盾、その暗さ混沌のすべてを知っている。第二次ヨーロッパ大戦の前まで、少くとも日本では、よい恋愛、人間らしい結婚について思っていた人々はいつもこの問題を明るい面からだけ希望し期待していた。つまり理想をもち、憧れも持っていたけれども、最近の数年間の荒っぽい現実は、そういう主観的な角度から恋愛や結婚を思い描く甘さを青春の精神から奪ってしまった。今日の真面目な心は、その若さにもかかわらずイリュージョンの大半を失っている。自分が愛される以前に、一人も愛する者を持たなかったような男性というものを、どんなに品のよい娘でも期待していないし、或る人を愛し結婚する以前に、愛した人があった事を恥しい事と感じなければならないと思っている真面目な娘たちも無い。問題は、常にその愛をめいめいがどう経験し、対手をどう扱ったかというところにある。ロマンティック小説にあるように、生涯にたった一度の電撃的な恋愛が何時もあるとは思っていない。愛に蹉跌が無いとは思っていない。誤解もある。非常に重大な危機もあり得る。総てこれらのことを知っていて幼稚なイリュージョンを失っているからこそ、人間の信実の柱としての結合を期待できる愛を求めているのが今日の痛切な心情であると思う。人口の九割五分迄が勤労して生きて行く人々である。その勤労して生きる人民の人口比率を見れば三百万人の女子人口が過剰している。今更繰返す必要の無い性生活全面の困難は大きい。人間らしくまともに生きようとする私たちの足もとには、何とひどい凸凹があるだろう。たまに美しい空の色をうつしている場所があると思えば、その浅い水の下には命とりの穴ぼこがある。こういう生活の道で、人間らしい一日を送るということは、はっきりと現実の中にある非人間的なものと戦った一日ということを意味する。人生を愛するということ、自分の一生に責任を感じるということ、その人間的誇りの故にこそ最もよく愛せるものを見出そうと願っている男の心女の心の結合点は、それなら何処にあるというのだろう。つまりお互いに歩く道は泥濘の多いことをよく知っていて、そこをちゃんと歩き通すには、どんな助けあいが互いに必要であり、それが与えられ与える可能性を持っているかどうかということに互いの関心の焦点がおかれる。
実際問題として婦人の解放は憲法と民法の改正だけでは達成しない、彼女たちの一日の時間のどっさりを、とりもなおさず生涯の大部分を費させる台所と育児の仕事がもっと別なやり方でやられなければ、何より基本的な時間と体力で婦人は百年前と同じ一生の使い方をして行かねばならない。しかも百年前の無知でのびやかな、外の世界を知らない女心の狭さは、今日、本人達が望むよりも激しい勢で打ち破られている。一見文明的なそのくせ現実の社会施設に於ては無一物な荒野に、婦人は突き出されている。ショウが「人と超人」を書いた一九〇三年には自覚のある少数の男が生物的な(生の)力に虜《とりこ》になることを恐れ、それに抵抗した。一九四七年代になれば、この抵抗を非常に多数の若い女性たちが感じている。やっと発展させる可能な条件が社会に現れた今日の日本で、一心に自分を成長させ人間の歴史に何事かを加えたいと希望している愛憐らしい若い人たちが、怯えた苦悩のあらわれた瞳で眺めやっているのは何だろう。インフレーションによって人間の社会的良心さえも、その焚附《たきつけ》にしてしまっている竈の、ポッカリと大きくあいた口である。又、いくら洗っても清潔になりきらないおむつの長い列である。けれども若い自然の人間としての女性の心は愛すことを欲している。愛する者と共に住みたいと欲している。子供の可愛らしさを心の中で平手打ちにしている女性はいない。自分が子供を育てたならと心の底に思いながら周囲の母たちと子供との関係を見ていない女性はいない。けれども、どうしよう。竈の口はあんまり大きい。自分がその竈で食うのでなく、竈が自分の運命を食いそうに見える。なんとか、このおそろしい竈を人間の生活にふさわしい大きさまでちぢめ、合理化して行きたいと思う。子供の可愛さを自分の心の中で殺さないで、怒鳴り立てる母親とならないで、やさしい母にもなって見たい。今日の総ての人は、そういう問題が自分の心の中だけで解決しないことはよく知っている。託児所一つにしろ、衛生的な家族食堂一つにしろ、それが社会的なものであるからには社会的に建設され、婦人が家事の重荷から解放されねばならないことを知っている。そして、こういう点が解決されなければ女性が男と等しい意味で人間として豊かな経験を重ねながら、それぞれの成熟の段階で、社会に貢献して行くことは不可能であることを知っているのである。
今日の愛のモラルは、資本主義社会に於てこんなにも強く女性の生活の上に現れている板挾みの状態を、男子がどの程度まで自分の人間性そのものにもかかわっている状態として理解するかという具体的な点にかかっている。何故なら、愛は何時も好意である。不便や不幸を少くして喜びと希望とをもたらそうとする善意そのものである。自分の人生を愛し、女性である喜びを愛そうとし、人間である男の誇らしい希望や奮闘に同感したいと思っている女性たちにとって、愛とはこの生き方に必要な互いの協力と理解と信頼以外の何物であり得るだろう。愛というものが、今日の現実の中で、もし「君に台所の苦労は一切させないよ」とささやいたならば、ささやかれた女性はその嘘に身震いするだろう。信実の愛はこう相談する「さて家事が一大事だね、どういう風にやれるだろう。」考え深い普通の声でこう相談が持ち出された時、そこには現実的な助力と生きた愛がある。二人が二人のこととして辛抱しなければならないことがはっきりと見られる。従ってそれを解決して行こうとするあらゆる積極的な方法が研究される可能がある。そしてこういう相談をすることを知っている人々は、きっとその可能性というものが社会の歴史の前進の度合に応じて増して来るものである事を知っているに違いない。それだけのことを知っている人たちは、又自分たちの勤労とその喜びや悲しみの中にある一つ一つの発展への努力が、目に見えない力のようでありながら、実は確実に歴史を前進させる力となって行くことをも知っているに違いない。人間であることを喜び、その意味で苦悩さえも辞せない見事な人々はきっと思っているだろう。自分たちは歴史によって創られた夫婦であることだけでは満足しない。歴史を創る一対の男女でありたいと。
今日の世界では、資本主義的な民主主義と社会主義的な民主主義と更にもう一つ中国や日本また東ヨーロッパ諸国に現れたような新しい民主主義の社会形態が存在している。日本の私たちは、その違いについてもあんまり多くを知っていない。半封建の日本が急にどういう特色を持つ民主主義の社会に向って進んでいるのかよくわかっていない。そのために資本主義的な民主国の今日の現実に現れている種々の現象を、そのまま日本の民主社会の前途に当てはめて見る間違いがおこり易い。それは社会主義的な民主社会の生活を、いきなり、本質では未だ半封建な今日の日本の社会の上に夢想するのが、適当でないのと同じである。例えば、民主的な社会の特長である徹底した男女同権が実現されれば、そして勤労に対する報酬も、能力を発揮する機会も、婦人にとって全く男と同等になれば、その結果結婚を望む婦人が減って、離婚も増し、家庭というものが崩潰するだろうという見通しを語る人がある。これは実に日本らしい旧い結婚観の裏返った速断である。なる程これ迄の日本の女性は、身のふり方として、一種の生計の道として奴隷的な結婚にも入った。そのままの状態を、一つも発展しないものとして裏返して見れば、悪条件の無くなった社会で、女がそういう奴隷的生存を続ける為の結婚を望まなくなるだろうということは言えるだろう。けれども、私たちはそういう機械的な裏返しで現在の逆を見る誤りに落入ってはいけない。もし一つの社会が、その民主的な発達の過程で、本当に男女の同権を具体化するならば、それは当然人間の性別に対する、今日では想像も出来ない程行届いた理解をともなわずにはいない。男女同権ということは、今日のように男も女も基本的な生存の安定を脅やかされて、自然な性の開花と結実とを楽しめないような状態を意味しているのではない。人間らしい女の総ての心が、こんなに家庭と職業との間に引き裂かれて、二重の負担のもとに憔悴することはあり得ない。才能の可能性を認めて、妻であり母であると共に、人間として他の能力も発揮させたいと思っている夫の愛が、妻|諸共《もろとも》、かまどに追われる悲劇は許されない。ピアニスト井上園子や草間加寿子が何故金持の息子と結婚しなければならなかったかということを考えれば、男女に関らず、夥しい人の才能というものが、今日めぐり合っている経済的な殺戮を思わない人はないだろう。これは資本主義社会につきものである。民主的社会は婦人の能力に応じた社会的職業と母性の完成との関係を、社会問題として解決している。姙娠、出産、保育の仕事は、女を女として認める男女同権の社会でこそ、社会的な仕事として設備され協力される。母となる困難を社会的に経済的に保証された時、婦人にとってはじめて職業と家庭というものは、人間らしい統一でもたれる。妻は、そして子は、唯一人の男の廻りにより固ってパンを求める哀れな存在ではなくなる。その時、私たち人間が男も女も一層のびのびとした心持で、互いの美点を認め合い、互いの面白さを喜び合うことが出来る。人間の社会の歴史は実にのろく前進するけれども、やっとそこまで進歩したことを祝福しあって、心からその肉体をも結び合す愉快さをそういう時になって拒絶する必要があるだろうか。人間は自然なものである。人類は自分の生存を自覚した初めから幸福を求めてきた。私たちの生きる権利は具体的には、人間らしい高貴な幸福を人と自分たちのために打ち立てようと努力する権利であると思う。
[#地付き]〔一九四七年十一月〕
底本:「宮本百合子全集 第十五巻」新日本出版社
1980(昭和55)年5月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
1952(昭和27)年1月発行
初出:「婦人の世紀」第四号
1947(昭和22)年11月発行
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年6月4日作成
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