性の沁み通っている日本では、総ての人が今日寧ろ驚きをもって理解した通り、民法でさえ婦人をおそろしい差別待遇においていた。社会の現実の進み方と、これらの民法はどんなに喰い違っていただろう。今日民法が改正されて婦人の差別待遇が取り除かれたといっても、それでもまだ実際の社会情勢・日常生活の現実にはたちおくれている。今日改正されたような民法は明治三十年の初め、日本が未だ資本主義興隆期に向っていた時代に、ブルジョア民法として福沢諭吉が強く主張していた折に改正されれば、いくらかは社会生活の現実で女性の実際の助力となり得たろう。きょうではあまりおそまきな、結婚の自由、男女平等の財産権、平等の親権、その他いまになって改正された条件は、昔の民法からみれば婦人の解放のモメントをなして出ている。今日長いおそろしい戦争の結果これ程の未亡人と、浮浪児が何んの人間らしい生活へ進む可能性も国家から保証されないで、おそろしいインフレーションの街に放り出されているとき、平等の親権は、何をなし得るだろう。男女平等の財産権が、どこにその基礎になる人民の財産をもっているだろう。もし民法で新しくきめられた婦人の社会的平等、人間らしい対等の権利を具体的なものにするなら、もうきょうの社会のなかで民法の条項が改正されただけでは意味がない。男と女とがその勤労によって生きなければならない労働に関係あるすべての法律で、男女は平等になり女が女であるという意味での母性保護が実現しなければならない。だから、労働組合が、口ぐせのように勤労条件の要求の中に男女平等と母性保護をくりかえしているのは、深刻な現実をてりかえした真実の声である。この要求は、直接職場をもっている婦人ばかりでなく、勤労者の妻、母、娘すべてにかかわる問題である。結婚と家庭の問題にじかにつながっている。何故なら、きょう改正されたブルジョア民法としての新民法を、きょうの現実のなかで一般婦人に実効のあるものとするには、実際の勤労条件の改善に裏づけられなければ、殆ど偽瞞に終らなければならないのだから。
 私たちの今日の生活は破壊と建設の形容出来ない混乱と、それに加えて、民主的推進のきわめて複雑な道の上にある。憲法を見ても新しい「民主憲法」は不思議な矛盾をはらんでいる。天皇というものの全く特殊な規定が、この主権在民といわれる憲法の中にある日本の封建的な尾は、伝統の中に巨龍の尾のようにのこっている。そしてこの尾のうろこのかげにかくれて今日なお国民を破滅させた軍閥ののこりと反動の力がうごめいている。
 そして近頃広く読まれている作家坂口安吾氏は、彼の人気あるデカダンスに封建性への反抗という理論づけをしている。偽善的な、形式的な、人の思惑ばかりを気にしている日本の封建的な社会風習に対して、この作家は「雄々しく堕落せよ」と叫んでいる。様々の、情熱を失った道義観やきれいごとの底を割って人間のぎりぎりの姿を露呈させよ、という。そして肉体の経験、その中でも性的経験だけが信じることの出来る人間性のよりどころ、実在感の基点であるとされている。
 たしかに日本の過去の、そして今日の両性生活は不自然な状態におかれている。不必要なきがねや、くだらない体裁、いやしい常識、そういうものに毒されて掛引と臆測と打算なしの恋愛も結婚も本当に少いように見える。さもなければ住宅問題からはじまるインフレーションの諸悪があらゆる若々しい愛を結実させない。こういう社会の眺めは、よく生きたいと思っているすべての男女の精神を苦しめているし、実現しにくい愛に悶えさせている。この時の、爆発的に言われる堕落せよという声は、多くの人を物見高い心持から引きつける。
 ところで私達は、性的経験の中にだけ人間性の実在感があるという観念について、一つの、まったく単純な質問を出したいと思う。もし坂口安吾氏がいうように、ぎりぎりの人間的存在が性的交渉の中にだけ実感されるならば、何故坂口氏自身、こんなにたくさんの紙とインクを使って、それを小説として表現しなければならないのだろうか。この質問は、単純だけれど深い意味を持っている。何故ならこの文章の始めで私たちが見てきたように、我々の祖先の男女たちは、全く生物的に男と女のからまり合いの中に生命の最頂点の自覚をもってきた。然し、こういう生物的な人々は、小説は書かなかった。唯満腹の後の満足の叫び声としての歌、雌としての女の廻りに近よったり遠のいたり飛び上ったりする一種の踊り、そして最後に彼等の生活の核心であった性的祝典がおかれる。彼等は実際性的行為の中に実在したのだ。坂口安吾氏がそれ程熱中して性的生活の中にだけ人間的実在を捕えると言いながら、その経験に負けない熱中をもって、或いは性的行為の幾倍かの人間的エネルギーを傾けて、それを文学という様式を通じて、仮にも
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