文学作品とよばれるものにして行かなければいられない、その必然はどこにあるのだろう。
 あんまりはっきり現れているこの矛盾について、作家自身はかつて一度も説明を与えていない。作家が答えられないとしても第三者である私達には答えられる。つまり私たち人類は、もう穴居人ではないということである。それが良いにしろ悪いにしろ人類の社会の歴史は数千年経過していて、人類という生物には他の生物にない複雑で綜合的な生活機能が発展してきているという事実である。有名な生理学者パブロフが人間の生理の反射機能の実験を犬によって行い、条件反射という重大な発見を、生物的人間の理解に加えた。パブロフは、犬の実験を通して、人間も犬と同じように一定の条件に対して一定の生理的反射を行うことを見出した。それは生理学の一つの革命であった。パブロフが死んでから何年か経った。そして今日パブロフの偉大な発見の継承者たちは、人間という生物の発展に於ける独特な機能として、パブロフが発見した犬と等しい第一次命令体と共に、もっと深くもっと微妙に人間生活に影響する第二命令体(セコンド・オーダ・システム)のあることを証明した。犬はその餌を持って来る人が何人であろうとも、実験上習慣となっている一定の時間に餌を見れば盛んに反射作用を起して胃液を分泌した。人間にも食慾がある。食べたい時に食物を見れば、反射作用を起して口の中は湿っぽくなる。けれども忘れてならないことは、犬が決して「これは畜生の食い物だ」という感情を知らないことである。犬は食い物の与えられ方によって決して食いたくないと思う程の屈辱と憤りとを感じることがない。人間が人類という生物ではあっても、地面に投げ与えられたものを何でもがつがつ食べる生物ではなくて、人間ばかりが社会生活の発展から生物的な要求としての餌に対する悲しみも、憤りも、誤りも、自覚しているのである。資本主義社会は一日一日と個人の中に人間的自覚を目覚めさせた。犬とは違う餌についての諸感情と判断を目覚めさせている。餌は資本主義社会の諸条件のもとにあって、実に複雑極まるセコンド・オーダ・システムの対象となっている。食糧問題は、今日国際問題であり、政治の問題である。坂口安吾氏の性的経験の中に実在を自覚するという論についても同じことが云える。人間坂口は単に雄であるばかりでは実在しきれない。雄であることだけに実在を包括しきれない。だからこそ、小説として書く。小説は文字標式による精神活動の高度な表現である。近代小説はやっと十八世紀になってその一歩を踏み出したのである。
 日本の婦人は様々の形で非人間的なモラルに縛られてきた。恋愛とか結婚とかいう問題について受身であったばかりでなく、性生活そのものについての理解がほとんど暗黒のまま封鎖されていた。今日一時に扉が開いて、性的な問題は公然と取り上げられ始めたけれども、今日の青春がおかれている事情を見れば、そこにはそれぞれの形での春の目覚の悲劇があるように思われる。用意された知識も分別も無いままに、戦争中のあの楽しさを全く奪われた生活の檻から離され、青春はドッとばかりに溢れ出した。何に向って? どういう喜び? 何をどういう風に建設しようとして? ところがここでも、崩潰された生活安定と楽しさを喜ぼうとする激しい欲望がぶつかっている。はしゃぐことをふざけることをいつも禁じられてきた日本の娘が、今日町で、公園で種々の生活の隅々で、ひたすら笑うことをはしゃぐこと(有閑に楽しむこと)を渇望している姿は、その明暗さの錯綜によって深い問題を提出している。こういう今日の一部の生活感情にとっては「有閑に楽しむ」ことと「堕落を恐れない」こととは自然に結びついている。過去の恋愛だの結婚についての辛辣な罵倒はなぜ彼女たちにとって心よいかといえば、第一目前にそんな美しい恋愛だの結婚だの家庭生活だのがないことを知りぬいてそのことを悲しく思う心を、ふてくされて、居直ってしまっているから。それは親や兄の云いなりに否応なし形ばかり「神聖」な性的生活の、本質には同じような堕落に突き入れられるくらいなら、女も男と同じ感情で、自分から選んだ堕落の道に進む方がまだ痛快なだけましだとする点にあるだろう。
 ところがこの感情の自主的ということにやはり一つの疑問がある。坂口氏のデカダンス世界観の中では、女というものは唯男に対する性器的な存在だけであって、人間としてまた社会生活者としてもっている他の種々の条件や問題は存在しないとされている。もしかりに自主的な堕落の辛辣さを心から感じようとするなら、彼女はこの点で非常に迷惑な堕落論者の独断にぶつかるだろうと思う。何故なら、少くともその女性は人間としての自主的な選択、自主的な好みによって堕落の道をえらび、性的にも結ばれて行こうとしているのだろうのに。
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