近代文学の殆んど総てはこの近代の神聖な結婚と純潔な家庭生活等をひっくり返した側から取り上げているのは何故だろうか。
 結婚と家庭について、そして女性について、近代には二つの考え方が出来た。その一つは、所謂「神聖な結婚」「純潔な家庭」というものを承認しようとしながら、資本主義の現実社会が齎す醜悪さと偽善とに反撥して、ロマンティックに両性問題を考えようとした傾向である。私たちは聞いていないだろうか。人類は初め男女共分れていない一対の者であったが、それが或る時男と女とに分れてこの世に生れなければならない廻り合せになった。それだから男も女も互いに本当の自分の半身を見つけ出そうとして、完全な愛を求めて果もなく彷徨《さまよ》う悲しい宿命がそこから生じているのだと。
 こういうロマンティシズムに対して、近代精神の特長である現実に対する追求力リアリスティックな探求心は驚くべき熱中と執拗さをもって、恋愛と結婚と家庭の「神聖」の仮面をはいだ。モーパッサンのほとんど唯一の傑作である「女の一生」を読んだ人は、その昔騎士道が栄え優雅な感情を誇ったと云われているフランスでも、「女の一生」はあんまり日本の無数の女の一生と同じなのに驚くだろう。トルストイは「結婚の幸福」その他で結婚生活の無目的性と生物的な本質を、きびしい自分への批評をこめて描いている。「戦争と平和」の中であの特徴のある敏感な可愛いナターシャが、当時(十九世紀)のロシアの上級階級のいざこざの間に幾つかの恋愛を経験しながら最後はピエールの妻となって、だんだん鈍感になり、ふとり、次から次へと子供を持って歌いもせず考えもしない客間と子供部屋だけの存在となって行く過程を、トルストイは何と鮮かに追跡しているであろう。「アンナ・カレーニナ」が偽善的な上流社会の結婚の枷と上流婦人の無為な生活の中で、彼女の豊かな活力と可能性を受け止めるだけの人間としての力を欠いたウロンスキーへの情熱にばかり生存の意味をより縋らそうとして、遂に幻滅から死をえらんだ成りゆきも、トルストイは決して単純に良人以外の男を愛した妻の悲劇として書いたのではなかった。もっと突込んで、痛烈に、愛の無い冷酷な社会的偽善としての結婚の形態の内幕と、無方向に迸る激しい愛の渇望の悲劇を描いたものであった。トルストイが彼の貴族地主としての生活環境の中で、結婚と家庭生活の実体を厳しく省察したと
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