の経済的活動の上にも、政治生活の上にも絶対の権力をふるってきた僧侶貴族一家一門の首領たちの権威は、彼等のやり方と共に若い時代にとって重荷になってきた。発展を阻むものになってきた。近代の歴史の担当者として現れたブルジョアジーは、王権を否定して市民(ブルジョア)の権利を確立すると共に、ルーテルを先頭に立てて、法王に統率され経済的政治的に専制勢力の柱である天主教の仕組を否定した。そして、市民一人一人の精神の内に在る神としてのキリスト教新教を組織した。そして権力のために犠牲にされることのない市民の個々の家庭の尊厳を主張しはじめた。同時に両性の清らかな愛による互いの選択と、その神の嘉《よみ》し給う結合の形としての結婚を主張した。
ところでこの「神聖なる結婚」「純潔なる家庭」といいながら、資本主義社会の冷酷な利害関係と、持つ者持たない者との関係によって、現実にはどんな矛盾がそこにあらわれたかということは、夏目漱石が深い知識と研究で物語っているイギリスの十八世紀の文学史を見るとよくわかる。世界で最も早く産業革命を行い、市民の権利を確立させたイギリスは、新教の本場となった。従ってイギリスでは、特別にこの神聖な結婚と純潔な家庭生活という観念が流布して、偏見にまで高まった。その「神聖な結婚」はどんなに多くの場合男女双方からの打算を基礎にした選び合いであり、時には「買いとられた花嫁」を教会が「神聖な結婚式」で祝福していたかということはイギリスの有名な諷刺画家ホーガースの作品に辛辣に示されている。中流的なイギリス人の家庭で体面と打算とを両立させた「ちゃんとした結婚」をするためにどんな滑稽なひそひそ騒ぎが演じられるかということは、ジェン・オースティンの作品を見てもわかる。彼女の書いた「誇と偏見」は彼女のような所謂《いわゆる》ちゃんとした「淑女」でさえもどんなに「ちゃんとした結婚」への騒ぎに対しては皮肉と憐憫とを感じていたかを語っている。またイギリスの最も傑出した作家の一人、サッカレーの作品はその傑作「虚栄の市」の中で、光彩陸離と、なり上り結婚のために友情も信義もけちらかして我利をたくらむやり手な美しい女性を描いた。家庭の純潔が言われても、社会がこれらの家庭の純潔を全うさせるだけの条件を一つも備えていなかったことはオルゼシュコの「寡婦マルタ」の哀れな生涯がまざまざとしめしている。それどころか
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