龍の尾のようにのこっている。そしてこの尾のうろこのかげにかくれて今日なお国民を破滅させた軍閥ののこりと反動の力がうごめいている。
そして近頃広く読まれている作家坂口安吾氏は、彼の人気あるデカダンスに封建性への反抗という理論づけをしている。偽善的な、形式的な、人の思惑ばかりを気にしている日本の封建的な社会風習に対して、この作家は「雄々しく堕落せよ」と叫んでいる。様々の、情熱を失った道義観やきれいごとの底を割って人間のぎりぎりの姿を露呈させよ、という。そして肉体の経験、その中でも性的経験だけが信じることの出来る人間性のよりどころ、実在感の基点であるとされている。
たしかに日本の過去の、そして今日の両性生活は不自然な状態におかれている。不必要なきがねや、くだらない体裁、いやしい常識、そういうものに毒されて掛引と臆測と打算なしの恋愛も結婚も本当に少いように見える。さもなければ住宅問題からはじまるインフレーションの諸悪があらゆる若々しい愛を結実させない。こういう社会の眺めは、よく生きたいと思っているすべての男女の精神を苦しめているし、実現しにくい愛に悶えさせている。この時の、爆発的に言われる堕落せよという声は、多くの人を物見高い心持から引きつける。
ところで私達は、性的経験の中にだけ人間性の実在感があるという観念について、一つの、まったく単純な質問を出したいと思う。もし坂口安吾氏がいうように、ぎりぎりの人間的存在が性的交渉の中にだけ実感されるならば、何故坂口氏自身、こんなにたくさんの紙とインクを使って、それを小説として表現しなければならないのだろうか。この質問は、単純だけれど深い意味を持っている。何故ならこの文章の始めで私たちが見てきたように、我々の祖先の男女たちは、全く生物的に男と女のからまり合いの中に生命の最頂点の自覚をもってきた。然し、こういう生物的な人々は、小説は書かなかった。唯満腹の後の満足の叫び声としての歌、雌としての女の廻りに近よったり遠のいたり飛び上ったりする一種の踊り、そして最後に彼等の生活の核心であった性的祝典がおかれる。彼等は実際性的行為の中に実在したのだ。坂口安吾氏がそれ程熱中して性的生活の中にだけ人間的実在を捕えると言いながら、その経験に負けない熱中をもって、或いは性的行為の幾倍かの人間的エネルギーを傾けて、それを文学という様式を通じて、仮にも
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