のも生じた。
或る程度までは誰についても云われることだろうが、うちの父や母は自分たちの時代のいろいろな歴史の性格というものを自分では其と知らず、しかも全幅的に生きた人たちであった。
今考えて見て、一つの大きい仕合わせだったと思うことは、父も母も、型にはまった家庭教育という枠を、自分たちと子供らとの間からとりはずして大人も子供も一つ屋根の下ではむき出しに生活して行ったことだと思う。明治と共に生きた親たちは、一種の人本主義で、盆栽のような人間の拵えかたには興味を感じないたちであった。人間は人間らしく誰にも十分に生きるべきだし、そういう風に生きてよいものなのだという感情は、家庭の空気の様々な変化を貫いて流れていたと思う。
親たちは、時によれば子供たちのいるところで喧嘩もしたし、やがては親と子との間に議論もされてゆくという風であった。綺麗ごとで送られる毎日ではなかった。
母にはなかなか諤々《がくがく》なところがあっていくつ位の時だったか、何かの事でひどく母が私を叱った。私としては自分の心づもりがあってしたことで、どうしても其が悪かったとは思えなかったらしい。悪いと思えないのだから、あや
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