まるということもしにくかったものと思う。いつまでも御免なさいと云わなかったら、じゃあ、お母さまと百合ちゃんと、どっちが間違っているか、わかるまで二人で坐って考えよう、と云って、多分お昼だったのだろうと思うが、一度御飯をずうっとのばして、二人で向い合って坐っていたことがあった。
おしまいには、どっちが自分の間違いを発見したのだったか、覚えてもいない。それがどういうことだったかも思い出さない。けれども、そう云われて坐っていたということばかりは、よくよくおなかが空きでもしたと見えて、今もはっきり覚えている。
家の日々の空気が作用する
そんな思い出の一方には又こんなこともある。
小学校へ入って程なく音楽がすきだからというのでピアノを習いはじめた。うちにはベビイ・オルガン一台あるきりで其で教則本をあげた。そしたら先生がピアノを買った方がいいだろうというすすめで、一台中古を見つけてくれた。或る晩、九つの私は父につれられて本郷の切通しだったか坂の中途にある薄暗いその楽器屋へピアノを見に行った。いく台も並んである間にはさまって、その黒いピアノは大したものにも見えなかったので何となしぼーとしてかえって来た。ところが何日か経って、天井の低い茶室まがいの部屋へそのピアノが入って来たとき、私のおどろきと讚歎はどうだったろう。こんなに綺麗で、こんなに立派だったとは思いもかけず、左右についている銀色の燭台に蝋燭の灯をきらめかせて、何時間も何時間も、夜なかまで夢中になって鳴らしていた。
大きくなって見直せば、そのピアノは日露戦争の時分旅順あたりにあったものを持って来たもので、おそろしい時代ものの上に、こわれたところを修繕して全く色の違う木がところどころにうめてあるという品物であった。後年父や母は笑いながら、だってお前、あれだって買ったときには家じゅうにお金というものが三十円きりっきゃ残っていなかったんだよと云った。若いからこそ思い切ってそんな事も出来たんだね、と懐しそうであった。
人間のねうちは着物ではないと云って、小学校の四、五年ごろ菫色のカシミヤの袴の色のさめたのを、仕立て直して、襞のひろい方へもと上の方だった狭い褪せたあとの出たのを穿かされたのも覚えている。それを器用に染め直して、お前は女の子だからこんなことも覚えてお置きとは云わなかったところに、よかれあしか
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング