親子一体の教育法
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)諤々《がくがく》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ]〔一九四一年十二月〕
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        若々しい時代の影響

 私たちの育った時代の父と母との生活ぶりを考えると、若い生活力の旺な自分たちの生活への態度そのものの中に幼い子供たちをひっくるめて前進して行ったという感じがする。
 もし家庭教育ということを云えば、そういう積極活溌な日常の生活感情が、おのずから親として子供らに対するあらゆる場合の裡に溢れていて、子供の人生への歩みぶりにいつとはなし影響して来ていたと思われる。
 ごく活々としていた家の空気は大人にとっても子供にとっても成長力の漲ったものであったが、それは人間の成熟のために計劃され、整理されたものではなくて自然に、云って見れば父や母の年齢、気質、時代の雰囲気との関係でかもし出されていたものだったから、両親が年をとるにつれて、若々しく克己的で精励だった気分は変化した。そして、大きくなった子供としてはそこに悲しさや苦しさを感じるようなものも生じた。
 或る程度までは誰についても云われることだろうが、うちの父や母は自分たちの時代のいろいろな歴史の性格というものを自分では其と知らず、しかも全幅的に生きた人たちであった。
 今考えて見て、一つの大きい仕合わせだったと思うことは、父も母も、型にはまった家庭教育という枠を、自分たちと子供らとの間からとりはずして大人も子供も一つ屋根の下ではむき出しに生活して行ったことだと思う。明治と共に生きた親たちは、一種の人本主義で、盆栽のような人間の拵えかたには興味を感じないたちであった。人間は人間らしく誰にも十分に生きるべきだし、そういう風に生きてよいものなのだという感情は、家庭の空気の様々な変化を貫いて流れていたと思う。
 親たちは、時によれば子供たちのいるところで喧嘩もしたし、やがては親と子との間に議論もされてゆくという風であった。綺麗ごとで送られる毎日ではなかった。
 母にはなかなか諤々《がくがく》なところがあっていくつ位の時だったか、何かの事でひどく母が私を叱った。私としては自分の心づもりがあってしたことで、どうしても其が悪かったとは思えなかったらしい。悪いと思えないのだから、あや
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