しているのである。
 このほか「全ソ作家大会報告を読みて」という諸氏の感想が『文学評論』に集録されている。平林たい子氏が、その感想の中で「社会主義的リアリズムは日本の作家の間に漫然と使用されているような超階級的なスローガンではないらしい」といって「我々の現実の再検討によって」日本の現実に即した創作方法のスローガンを要求している。
 漫然と超階級的なスローガンであるかのように作家の間に使用される影響のしかたで、意味ふかい社会主義的リアリズムの提議は日本に紹介されたのであったろうか。私ははからず率直にかかれた数行をよんで沈思せずにいられなかった。

 今日の現実の再検討については、新年に創刊号を出した綜合雑誌『生きた新聞』が、注意をひく二つの論文をのせている。村松五郎氏「幽霊ファッショ論」がその一つである。日本に純粋な資本主義独裁はないから、従ってファッシズムもない、という主張をもった社会時評である。他の一つは「プロレタリア文化戦線の見透し」北厳二郎氏である。限られた枚数の中で、詳細にふれることは不可能であるが、前者において、われわれがそれをこそイタリーとはちがう日本の特殊な資本主義発達の歴史の性質を示すところの日本のファッシズムの実相であると理解している社会的政治的現象を、村松五郎氏は、「本質的には『封建的勢力の増大』であるにもかかわらず、それが表面ファッシズムの外形を取っている」といっている。たとえば、
「第三に、ファッシズムは、資本主義独裁の形態であり、プロレタリアートへの徹底的弾圧をその中心任務とする。日本の支配権力は自分の地位のため、現体制を守る。〔三四字伏字〕(復元不可能であるが、日本の支配階級は、対立する社会的経済機構である労働者階級に、という意味であろう。)、全面的な攻撃を加える。社会的経済構成としては違った二つの社会を維持するために同一の手段がとられることから、一寸見るとまどわされて、歴史的にも階級的にも全くちがう本質を同じ物に見る危険性がある」という如き、むしろ筆者の意企を諒解するに苦しむような結論に到着しているのである。
「プロレタリア文化戦線の見透し」において、北氏は封建的イデオロギーの重圧がきびしい日本の大衆の現実生活と結合した文化政策は、「〔九字伏字〕(復元不可能)特殊性と多様性を全体の複雑さに於て捕え」なければならぬと云っている。その一例と
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