、どうして作品の中に情感の高い響をつたえることが可能であろう。
プロレタリア文学においては純技術的な問題を発展的につきつめてゆくと、窮局において、作者がとらえ表現しようとしている現実の諸相に、どんな評価を与えているかというところへ出て来ることは興味ある事実である。文芸批評の歴史は、ここをモメントとして今日にまで発展して来ているのである。
同じ『文学評論』に掲載されているマカリョフの「開かれた処女地」の分析、又『文化集団』新年号の最も重要な記事の一つ、ローゼンタールの「生活及び文学における典型的性格」研究などは、細かい部分についてはある註解がいると思われるところもあるが、以上の問題にも連関して一読の価値があると思われた。
『文化集団』では又、上述の二つの論文との対比によって、われわれに教えるところのある小松清氏の「ソ作家大会と新個人主義」という論文が発表されている。小松氏は第一回全ソ作家大会の重要性の一つは、かつて「ラップ」によって「ブルジョア自由主義もしくは個人主義文学の名によって蔑視され勝ちであった西欧文学についての再検討と、自国文学に対する価値的反省」であるとし、「フランスの行動的ヒュマニズムの変革運動は芸術にあっての自由と、その自由なる芸術的表現の主張によって最近のソヴェト文学によき示唆を齎した。」小松清氏はアンドレ・ジイドのメッセージの一節「今日、ソヴェトは文学なり芸術なりの領域において、コムニスト的個人主義を設定することに努めなければならない」という言葉を結語として「われわれの主張する全的人間性の観念の上に立った個人主義」を、日本におけるプロレタリア文学運動の新段階と直接間接関係あるものとして提出している。ジイドが今日のソヴェト社会の現実を念頭において意味したコムミニスト的個人主義というものの実体と、日本の階級社会のなかにあっての個人主義の実体とが、同じであり得ぬことは自明である。小松氏の全的人間性の観念に立った個人主義というものも、果して現実のものであり得るだろうか。全的人間性[#「全的人間性」に傍点]の登場の可能に対する観念[#「観念」に傍点]そのものさえ蹂躙しつつ、階級社会の時々刻々の現実生活はどのようにわれわれをゆがめ、才能や天分を枯渇せしめているかという憤ろしい今日の実際を、ローゼンタールの生活と文学における性格の研究の論文はくっきりと抉り出
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