さ、諧調における明暗の濃さ、力感のつよさなどを追求するのはむしろ必然だと思う。われわれは、丈夫な頸骨と眼力とをもって、すべての古典作家から滋養をとろうとするのである。が、そのやりかたは、古典作家、たとえばドストイェフスキーなどが癲癇という独特な病気をもちながら、彼の生きた時代のロシアの歴史の制約性と、自身の限界性によって描いた作品をそれなり随喜鑽仰することではない。彼の芸術的現実に現れている深刻な矛盾についても今日に生きているわれわれの目で分析し、矛盾の相互作用をあきらかにして、その連関の上に、芸術品としての美も魅力の性質もあきらかにしてゆくべきであろうと思う。
 この座談会ではイデオロギー批評とその他の批評、作家的批評とが二様にわけてつかわれた。主として創作上の技術などについて追求しようとする作品の見かたがイデオロギー的でない、作家の役に立つ批評としていわれている。しかし会話のやりとりの間ではイデオロギー的批評の性質は分明にされなかった。これは、果してどういうものであろうか。
 たとえば橋本正一氏がいっているように、自身の創作の実際にあたって、作家は、他の作家によってかかれたある作品の構成「漸次に発展するところの場面に対する小説的な興味」又は作品に感銘ふかい効果を引きおこす為に大切な「絵画的な細部描写」などを吟味し、それらがどのように作者の意図を具体化しているか、成功しているかいないかを理解することによって自作のための有益な参考をひき出す場合も少くないだろう。それにしろわれわれの文学にはユーゴオが創作の法則と考えていたような固定した対立法などというものはありえない。やはり作者が描こうとした現実とのなまなましい有機的なつながりで構成や文体をも批評することはあきらかである。その際、事件の発展の順序、比重、描写における精疎のリズムなどを何によってわれわれが判断するかといえば、描こうとされている現実の複雑な諸要因、錯綜した関係に対して、作者がどことどこに重点をおこうとしているかということが、土台となって来る。現実の諸現象、その要因となる関係は創作にあたって作者の評価を受けざるを得ない。芸術的作品はただ事件があるだけのものでないことは、この座談会でもいわれている。「生活の底深さから出る」芸術的雰囲気は、作者の情熱なしには発生しない。社会の今日の現実にある立場を持たないものが
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