レタリア文学の活動を開始した有能な人々が、どのくらい、文学の特殊的な技術の問題について、その微細な点にまで具体的探究をすすめようと努力しているかということがよくわかる。過去の日本の若いプロレタリア文学運動が顕著な弱点として持っていた題材、主題や様式などの単一性に対して、熱心に現実の多様な錯雑をさながら丸彫りとして芸術化そうとする方向に一致して努力されていることも認められる。これらの特長はこの座談会を流れて一貫し、プロレタリア文学の新しい展開への可能を暗示している。
この座談会の席上で、島木氏や徳永氏によってプロレタリア文学作品の一つの発展的タイプとして「プロレタリア的な単純な明朗性を持った作品」「単純な、明快な言葉で判りよく、しかも芸術的な」(島木氏)作品が翹望されている。そのような作品に対する評価の点では諸氏の意見が大体一致しつつ、その点を一層具体的にするような討論が伸びず、ひるがえって、一方で、現在それらの人々の関心をひいている問題の具体的な内容の一例としてドストイェフスキー再認が語られていたり、リアリズムは進化するという本圧氏の意見にはいって行ってしまっている。又平田氏のように「文学の一般のレベルがもっと高くならなければならぬのだ。だからいきなり農民に判ったりするものか、それは小説の罪ではなくて、うんといいものは判らなくていいのだ」という見解が力をこめて語られたりもしている。われわれの今日の文学が置かれている錯綜した現実がここにも見出されるのである。
新たなリアリズムの本道を示すような健康な作品の出現が要求されているのであるが、現在の大勢では、過去のプロレタリア文学に欠けていた文学の多様性、独自性、複雑性への興味関心が熾烈である。それに連関して芸術作品の「文字の背後の雰囲気」「噛みしめて行くと」出る「凄い味」(橋本氏)の価値も注目をひいている。若い作家たちの文学的関心の現状は、文章についての問題からだけ見ても「素朴で沢山の思想を現すのが芸術の本道である」というところにまでやがて高まる。にしても、今はまだその道のなかほどにあると思われるのである。
プロレタリア文学の多難な発展過程から見て、過去の「ナルプ」の活動にあった弱点から押しても、現在文学的野望に燃える多数の作家たちが、プロレタリア文学における独特な長所を発見しようと志し、同時に、芸術作品の構成の豊富
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