にならない効果で利用しているわけなのである。
 プロレタリア文学の形式の多様化の一つとして、われわれに求められているのは、愉快な階級的哄笑を爆発させるプロレタリア諷刺劇、又は諷刺小説、詩である。
 例えば、左翼劇場で上演した「銅像」を、みんなどんなによろこんで観、あとまでその印象をもっているか。
 ところが、諷刺は元来非常に活々した社会性をもっているものだけに、諷刺の対象が時代の影響をうけて変遷するばかりではない。諷刺するもの、そのものの属している階級の力のもりあがりと密接な関係をもって、諷刺の態度が時代によって違う。
 よく例にとられるチェホフの諷刺的短篇を見よう。
 チェホフは小市民的卑俗さ、愚劣な伝習というようなものを常に鋭く諷刺し、その下らなさ加減を興味深い短篇の中へ素敵な技術でもり込んでいる。然し、チェホフの諷刺は、どこまでも、自由主義人道主義的インテリゲンチアの諷刺だ。というのは、チェホフは、しまいにはいつだって、高みから見下したような憫笑で、諷刺の対象を許してしまっている。
 下らぬもの、卑しいものに対して、勝利する新しい世界観というものを明瞭に把握してわれわれに示しては
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