くれない。
 そこに、彼の生きたロシアの革命的沈滞期の社会が明かに反映しているのである。
 もっと後の時代でも、例えばドイツの漫画家グロッスの仕事を見ると、彼の諷刺家としての階級性がよく分る。グロッスの貪婪なブルジョア、冷酷な淫猥なブルジョア女、圧迫されながらしばられ不具にされたプロレタリアートの描写は、その辛辣な暴露で漫画界に一つのスタイルを創った。
 ぞろぞろ手法の模倣者が出た位鋭いものを持ってはいたが、本当に闘争するボルシェビックなプロレタリアートはしんからグロッスの漫画を好きになれなかった。
 グロッスはアナーキスト的な世界観で、階級的醜と悪とを暴露したのはいいが、暴露しっぱなしだ。このざまは何だ? それっきりでつっぱなしている。
 現実に新社会を建設しようとしているプロレタリアの意志、プロレタリアートの情熱の輝きは、グロッス漫画のどこにも光っていない。
 世界の階級闘争がひろい文化戦線にわたって激化されるようになってから、敵の陣営=ブルジョアを攻撃し、笑殺する武器としてのプロレタリア諷刺は、弁証法的な形で扱われるようになって来た。
 対手の悪と醜とを暴露し、やっつけるぎりの消極的諷刺から、諷刺する主体、プロレタリアートの逆襲的勝利、社会的価値の再認識ということまでを含めて扱うところまで進歩して来た。
 日本でも、まだ数こそ少ないが、この方面で面白いプロレタリア漫画、諷刺文学は出はじめているのである。

          三

 では、プロレタリアートの自己批判の武器としての諷刺は、どんな工合に発達しているだろうか。
 ソヴェト同盟のように、もうプロレタリア革命後十何年という建設期の特別な社会情勢では、諷刺がなかなか現実的な力でこの方面の文化活動につかわれている。
 今ソヴェト同盟で出ている、あらゆる漫画諷刺雑誌の主題は、資本主義国支配階級への攻撃、国内のブルジョア残存物への挑戦、次にプロレタリア生産、文化の自己批判が、扱われている。
 然し実際にやって見ると、階級的自己批判としての諷刺文学は、あるいは画よりも困難をもっている。
 批判、諷刺の対象を日常の些細なことから一つ一つ部分的にとりあげた場合、それは割合やさしく、笑われるものと、笑うものとの関係をこめてはっきり把握される。例えば、ソヴェト同盟の五ヵ年計画のはじめにされた職場の酔っぱらい排撃、官僚主義
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