ほとんどない。
 ソヴェト文学の中にあるか?
 ない。
 盛りあがった力あるプロレタリアートが階級的立場に立ってものをいうとき、遠慮して、兎だの亀だのに代弁させる必要はないのである。
 これは、日本の闘争的プロレタリアートの心持にしろ同じである。
 その代り、諷刺は昔のロシア文学の中に重大な社会的役割を果した。
 現代のソヴェト同盟でも、諷刺は新しい立場から研究され、絵画の領域では漫画といっしょに、大いに階級的活動に利用されている。

          二

 諷刺は、極めて現実的である。
 対象と主体との相異対立がはっきり認識され、それを積極的に批評し、評価結論を下したところに、諷刺が現れる。対象を批評するときには、当然暴露がついて来る。
 しかも、暴露の材料一々の具体性が分析される。従って対象と主体の置かれている一定の時代、階級というものを無視することは絶対に不可能である。
 諷刺は攻撃的だ。率直だ。動的で、生活的だ。
 活溌な闘争にしたがう世界のプロレタリアートは、だから一方にはブルジョア社会への攻撃の武器として、他方には自己批判の武器として、諷刺をアレゴリーとはくらべものにならない効果で利用しているわけなのである。
 プロレタリア文学の形式の多様化の一つとして、われわれに求められているのは、愉快な階級的哄笑を爆発させるプロレタリア諷刺劇、又は諷刺小説、詩である。
 例えば、左翼劇場で上演した「銅像」を、みんなどんなによろこんで観、あとまでその印象をもっているか。
 ところが、諷刺は元来非常に活々した社会性をもっているものだけに、諷刺の対象が時代の影響をうけて変遷するばかりではない。諷刺するもの、そのものの属している階級の力のもりあがりと密接な関係をもって、諷刺の態度が時代によって違う。
 よく例にとられるチェホフの諷刺的短篇を見よう。
 チェホフは小市民的卑俗さ、愚劣な伝習というようなものを常に鋭く諷刺し、その下らなさ加減を興味深い短篇の中へ素敵な技術でもり込んでいる。然し、チェホフの諷刺は、どこまでも、自由主義人道主義的インテリゲンチアの諷刺だ。というのは、チェホフは、しまいにはいつだって、高みから見下したような憫笑で、諷刺の対象を許してしまっている。
 下らぬもの、卑しいものに対して、勝利する新しい世界観というものを明瞭に把握してわれわれに示しては
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