らしい。こじきの太郎とか王子のジョージとかより先に、おおかみと鶴、兎にたぬきなんかを持ちだして、話をすすめて行く形である。
 アレゴリーの従来の利用価値は、いろいろあったにしろ、一部の事実として聞きてに聞きて自身や話の中の人物の階級性なんかまで考えさせずに、いいたいことをスラスラいって聞かせるというところにあったことは確だ。
 だから、その中に現れてくる主人公の行為も、具体的であって、実は具体的ではない。
 兎と亀のかけくらで、兎が油断して昼寝したり、亀が身の程を知って、ノタノタ一生懸命に歩きつづけるということは、この世の中に確にある行為だ。けれども、何年、何の時代に、どういう情勢のもとに起ったことだという意味での具体性のないのが、アレゴリーの中の行為の特性である。
 ところで、ごく簡単にしらべて、こういう特徴を見つけたアレゴリーがプロレタリアの文学として、実際どのくらい役に立つものだろうか。
 実際の例をとって考えて見よう。桃太郎の話は、たれでも知っているから、ちかごろ階級的童話の初歩的試みとして、そのつくりかえが行われている。
 プロレタリアートの文学に、まず階級性のはっきりしないことは困る。特に啓蒙的な目的でつかう場合こまる。桃太郎が桃から生れて、犬、猿、キジをひきつれて鬼という架空的存在を征服して、宝物をひとりで取って平気でいるのでは、ものにならない。
 桃太郎は貧乏な小作人の子で、鬼は悪地主だ。三人の仲間を中心として悪地主をやっつけて、村の農民みんなのために働いたという風に、かえられる。
 これはアレゴリーだろうか? そうではない。従来の意味でアレゴリーの形式はこわれている。
 階級闘争の実践の過程で階級的基準をぬいた善行というものはあり得ない。まず第一にこれがアレゴリーの性質とブツかる。
 第二に、アレゴリーは、静的だ。静思的だ。それだから、たとえそれが反抗的な要素によってつくられていても、直接に、大胆に暴露や批判はしない。消極性を少なからずもっている。
 今日、世界唯一のプロレタリアートの国ソヴェト・ロシアは昔から、革命的経験をどの国より豊富に、歴史的発展につれてもって来た国である。
 文学は、ブルジョア・インテリゲンチアの革命運動のはじまりから、多くその影響のもとに生れた。
 では、古典ロシア革命文学の中に、どんな傑出した階級的アレゴリーがあったか?
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