排撃のような主題だ。それは相当うまく行った。
ところが、そういう社会的現象をみんなひっくるめて、プロレタリアート独裁下のソヴェト生活という風な大主題を扱おうとすると、諷刺文学はいつもプロレタリアート的成功をかち得るとはきまらない。
ミハイル・アファナシェヴィッチ・ブルガーコフという小説家がソヴェトにいる。一八九一年キエフ生れで才能がある。一九一九年のあるさびしい秋の夜、汽車にガタクリ揺られながらふと短い小説を書いたのがはじまりなのだそうだ。
もう七八冊の本が出ている。「トゥルビーン家の数日」という国内戦時代の中ブルジョア層を主題にした脚本などは一九二七・八年モスクワ芸術座で上演され、ひどく評判だった。
ブルガーコフはこの他にも「赤紫の島」という脚本を書いた。これは、カーメルヌイ劇場に上演されてなかなか面白いものだった。ところが「トゥルビーン家の数日」も「赤紫の島」も上演禁止になった。
この間何かで、ベルリンのピスカトールが、ブルガーコフのモスクワで上演禁止になった作品を演出する計画をたてているというようなうわさをよんだ。
これはどうしたことだろうか? トロツキーが暗にほのめかすように、ソヴェトは天才を生かさない場所なのか?
そうではない。ブルガーコフは才能ある作家で、しかもその才能がまれにしかない諷刺的なものだということは、ソヴェト・プロレタリアートにとって、この上なく結構なのだ。が、残念なことにブルガーコフのソヴェト社会に向って発動する諷刺は、小ブルジョア的な尻尾をひっぱっている。
具体的にいうと、「赤紫の島」で、ブルガーコフは、一部の共産党員が考えている性急で単純な世界革命の希望を批判し、諷刺している。
確に、この大仕事はそう雑作なく行きはしないのだ。(ブルガーコフは、それを逆に、ある島――赤紫の島の住民が、まるで公式的なアジでパッパッと革命を遂行しソヴェトをつくってしまうという表面の成功の形で、こんなだったらいいだろうがネ、といっているのである。)
だが、果して、世界革命はブルガーコフのように諷刺しやゆ[#「やゆ」に傍点]してしまうだけのものだろうか?
党、それを支持するプロレタリアートの一面の誤謬は指摘され、笑われている。プロレタリア的な積極的な見通しが、全脚本を通じてない。そこで、大衆は疑問をもち始め「赤紫の島」は上演を禁じられた。
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