た時代のドストイェフスキーの世界は、何を与えるだろう。しかし、偶然は、そういう作品をも或る休みの日の夜、人々の手にとらせるのだ。その人は、何の気もなしに読む。そして何と思うだろう。どんな感じがしただろう。
 勤労して生きるすべての人の新しい文学の胎動と可能のめざめは、この単純な、どんな感じがしたか[#「どんな感じがしたか」に傍点]、というところに源泉をもっているのである。読ますことは読ますが、どうも。そういう感じもある。ドストイェフスキーってなるほど大したものらしいが、しかし、カラマゾフの世界が、これからの現実に再びあるとしたらどうだろう。社会の歴史は、どっち向きに動くはずのものなんだろう。そういう疑問もあり得る。
 どれも、文学の作品批評とは云えないかもしれない。そんなにまとまってはいない。だけれども、どだい文学というものは、非常に複雑な世界の底を、びっくりするほど単純で、しかもまじりけないもので支えられているのがその本質である。それは、どうしてだろう? という疑問と、何故? という問いかけである。バルザックの世界、トルストイの世界、小林多喜二の世界の底に、一つの、どうして? が存在
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