ているのは、プーシュキンやゴーゴリの作品でなく、その文学の世界が、永久の分裂で血を流しているドストイェフスキーであるという事情には、いまの日本のこの社会的な心理がかかわっている。解決のない人間の間の利害や心理の矛盾、無目的な情熱の絡み合いの世界を、坂口安吾より太宰治より濃厚に戦慄的に描き出しているドストイェフスキーの文学は、目的のはっきりしない社会混乱のなかに生きているきょうの若い人の心をひきつける。その相剋の強烈さで。その暗さの深さで。自分が感じている明るくなさや、ひとも自分も信じがたさを、刺戟し、身ぶるいさせる自虐的な快感でひきつけられているのだと思う。
ここで、再びわたしたちは、文学にふれてゆく機会が偶然であるという事実と、ある文学にひきつけられるモメントの問題に立ちかえってみる。
こういう現実の事情で、人々のうちにある文学の種や芽は全く今日戦争後の廃墟の間にばらまかれている有様だと云えると思う。わたしたちが激しい現実を生きてゆく道で、偶然に接触するいろいろの現象を箱入り風にあらかじめ選んでゆけるわけはない。肉体とともに精神も、実に荒っぽくもまれる。エロティックなものにもふれ、人格分裂の風景にふれる。その、それぞれに反応する生きた心を生きている。その波風の間で、では、何がわたしたちの日夜、まともに伸びたいとねがっている人間性の砦となり、その人の文学の足場となってゆくのだろう。
平凡だと思われるほどすりへることのない一つの真実がある。それは、一人一人のひとが、自分のまともに生きようとする願望について不屈であることである。過去の文学談では、こういう問題は、文学以前のことという風に扱われる習慣があった。いまでも、そういう流儀はのこっている。しかし、それは間違っている。
わたしたちが、ほんとにこの社会でまともに生きようとするとき、現実とその願望との間には忽ち摩擦がおこって、いやでも応でも私たちに、自分のこの社会での立場、属している階級の意味を目ざまさせる。勤労して生きているものの人生の内容と、徒食生活の男女の生活内容の絶対のちがいは、一つの恋愛小説をよめば、まざまざとしている。二十四時間を、八時間から九時間以上職場にしばられ、千八百円でしめつけられつつ家族の生活をみている正直な勤労者の青春にとって、きょうの猟奇小説と、ロシアの人民が暗黒のなかに生を苦しんでいた時代のドストイェフスキーの世界は、何を与えるだろう。しかし、偶然は、そういう作品をも或る休みの日の夜、人々の手にとらせるのだ。その人は、何の気もなしに読む。そして何と思うだろう。どんな感じがしただろう。
勤労して生きるすべての人の新しい文学の胎動と可能のめざめは、この単純な、どんな感じがしたか[#「どんな感じがしたか」に傍点]、というところに源泉をもっているのである。読ますことは読ますが、どうも。そういう感じもある。ドストイェフスキーってなるほど大したものらしいが、しかし、カラマゾフの世界が、これからの現実に再びあるとしたらどうだろう。社会の歴史は、どっち向きに動くはずのものなんだろう。そういう疑問もあり得る。
どれも、文学の作品批評とは云えないかもしれない。そんなにまとまってはいない。だけれども、どだい文学というものは、非常に複雑な世界の底を、びっくりするほど単純で、しかもまじりけないもので支えられているのがその本質である。それは、どうしてだろう? という疑問と、何故? という問いかけである。バルザックの世界、トルストイの世界、小林多喜二の世界の底に、一つの、どうして? が存在する。この根本的な疑問を、それぞれの作家が、どんな歴史の見かたで、どんな歴史のなかで、どんな階級の人として、どんな方法で追究し、芸術化して行ったかが、作品形成の一つの過程である。
きょう作品を読む人々は、自分が現代の日本の現実の中に働いて生きるものとして生きているという社会的な本質にたって、まともに生きようと欲している、という人生のテーマと、そこにある感覚をしっかりもって、ふれる文学作品の一つ一つについて、心にひきおこされる直感的な判断を大切に保って、それを社会的に文学的に成長しつつ深め展開させて行ってこそ、はじめて、その人としての文学が生れるめど[#「めど」に傍点]がつかまれて来る。そういう心でよんでみれば、古典から現代作家の、国内国外のあらゆる作家が、それぞれに見事な業績をのこしながらも、ほんとに自分の云いたいこと、あらわしてみたい心、描きたい情景だけは、誰もかいていないことを見出して、どんなおどろきと、新しい世界の発見にうたれるだろう。
多くの文学作品をよんだあと、人はやがて自分で書くようになる、という事実は、決してただ書きかたがわかった結果ではない。他の人々が精神こめて、一
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