のこのみとはどういうものだろう。こまかくしらべれば大変複雑で、音楽好き、映画好き、スポーツ好き、様々ではあるが、大体、人間として一応興味をひかれることがらというものはある。衣、食、住のこと、それから恋愛など、愛と憎しみの諸問題。その素朴ないくつかの主題は、その社会がそのときおかれている歴史的な条件で、さまざまに表現をかえて来る。衣、食、住、愛憎の問題だけを見ても、戦争中は、人間的な欲求の一切を抹殺した権力によって、そういうテーマは、すべて自然の文明的な主張をかくし、軍国主義への献身だけが強調された。小説にしろ、そうだった。大衆のこのみは、そこに追いこまれ、すべての出版物がそういう傾向であった。
だから、そういう時代に本をよみはじめる年ごろになった若いひとたちは、偶然よんだ小説が、竹田敏彦であったり、尾崎士郎の従軍記であったり、火野葦平の麦と兵隊であったりした。本をよむことそれ自体が、一人の人間の生活の環のひろがりを意味するし、心の世界の拡大を意味することは、ゴーリキイの思い出に云われているとおりだから、あの時代、ひとは、一冊の本をよめば、よむほど、その偶然によって戦争気分へひきこまれた。戦争について考え直して見ようとする本、戦争について日本の権力が語るひとりよがりを不審とする論文、そういうものは発表されなかったのだから。
さて、戦争が終って、ポツダム宣言が受諾され、日本は人民の幸福のための民主国にならなければならないことになった。三年経った今日、わたしたちの周囲に、いまはじめて、文学にふれてゆく人のために、最も多い偶然として氾濫している雑誌、小説類は、どんな種類のものだろう。衣、食、住、愛憎の主題に戻って、今日の出版物の多くを眺めると、戦争が社会の安定を破壊し、個々の人の物質と精神のよりどころを粉砕した、その乱脈ぶりと、傷口とが、まざまざ反映している。既成の文学のなかで、愛憎の問題は、人間の発展のモメントとして、まともに扱われる基礎を失ってしまった。こういうテーマに熱中していたのは中産階級の作家であり、文学であり、またその読者であったのだが、今日、日本の中産階級というものの実態はどうだろう。経済的に破滅した。経済上、精神上の闇が洪水のように、最もよわいこの社会層をつきくずしている。戦争中、非人間的な抑圧に呻《うめ》いていた気分の反動で、すべての人間としての欲望をのばしたい衝動がある。その半面、経済的な社会生活の現実では、その激しい衝動を順調にみたしてゆく可能が奪われているから、虚無的な刹那的な官能のなかに、生存を確認する、というようなデカダンス文学が生れた。封建的な人間抑圧への反抗ということも、理由とされているが、それは、その第一歩、第一作の書かれた動機のかげにあった一つのぼんやりしたバネであったにすぎない。二作、三作、ましてそれで儲かって書きつづけてゆく作品のモティーヴになってはいない。
わたしたちのきょうの生活をリアリスティックに見つめれば、人民の殆んどすべてが日向と日かげの境で暮している。わるいことといいこととのまだら[#「まだら」に傍点]を身につけて生きざるを得ない状態である。今日の生活としてだれしもやむを得ないことは、その程度のちがいだけであるところまで辷りこむと、本質をかえて社会悪となり、また犯罪的性格をもつようになってしまう。公然のうそ[#「うそ」に傍点]が、わたしたちの生活にある。うそ[#「うそ」に傍点]であることを政府も人民も知っている。だけれどもうそ[#「うそ」に傍点]はわるいこと[#「わるいこと」に傍点]とも知っている。モラルの基準もぐらついている。百万円の宝くじに当った人はバクチ打ちとして捕えられない。けれども、バクチは千葉県の競馬場でも大騒動して検挙されているし、新宿もそれでさわいだ。五十円の宝くじを買って、百万円あたる、ということはバクチでないだろうか。勤労の所得と云えるかしら。政府が赤字やりくりのために思いついて、先ず五十円券をどっさり買わせ、それで第一段儲け、ついで五人のひとに百万円あてさせて、こんどは売れのこりに一本あったから四百万円だけはらって、それが何かの形でまた逆にかえって来て、金まわりを助けてゆく。こういうことは、わたしたちの常識にとっては異状に見える。堅実に、堅実に、耐乏して生産復興と云われ、勤労者はその気で生きている傍で踊子たちが宝くじのぐるぐる廻るルーレットを的に矢を射ている。しかし、きょう勤労するすべての人に企業整備の大問題が迫っている。税の問題がある。
社会のこういう矛盾と撞着、それをみんなが知っているくせに、いちいちおどろいたり、苦しんだりしないような顔でいるくせ[#「くせ」に傍点]になってしまった。しかも心は晴れていない。ロシア文学の古典の中でも、いま日本に流行し
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