ことは、もう一九一八年以来世界の人々が感じている。しかし、資本主義の社会体制が保たれることで特権をもってゆける支配階級の人々は、あらゆる手段をつくして新しい社会体制の発展を遅らせようと努力していますし、あからさまに人民大衆を犠牲にして、社会的混乱を拡大し、深め、その間に新しい歴史をつくってゆく労働者階級の政治力をそいでしまおうとしてきている。下山事件は、新しい日本のファシズムが人民の感情を混乱においこみ、だんだんに迷わせて、正当な抵抗の発現をそぐという手段の成功した例です。
「進歩」ということは、こんにちの社会情勢について、国際情勢について、もっとも多くの知識をもち、歴史的見通しをもった、いわば前衛的な人々が、大胆に権力と対決してゆくというだけの単純なことではありません。「進歩」ということは、その時代の常識の最高の線についてだけ云われることではなく、むしろ、最低線について云われるべきことです。その最低線がどの程度まで歴史の客観的な前進に一致した認識と行動に向ってきているかということこそが、進歩のめやすです。だから、たとえば日本の婦人の社会的地位の進歩という場合、婦人代議士、特殊な芸術家、科学者などの業績をはかることばかりでは一面的です。日本においては、繊維産業に働く女の子の生活と意識の水準がどの辺にあるかということが、必ずみられなければなりません。吉田首相がどんなに綺麗な白足袋をはいているかということではなくて、続々と失業させられている労働者の食べられるもの、着ていられるものは何か、田圃で働いている人々、苦しい中小商工業の人々の生活で、赤坊の着ているものはどういうものかということに、人民的生活の進歩の標準があるのです。
一つの学校の中で、優秀な細胞があり、自治会があり、そこに属す学生はすべて頭脳明晰だということだけが、その学校全体の学生の精神水準を示すとは云いきれないし、日本の青年の進歩の総和的な標準だとはいえません。東大でも、伊藤ハンニまがいの山師がでているし、きわめてエクセントリックな性格と生活態度の女子学生が大阪の実家で弟に殺されたという事件があったし、法科の学生が教室でエロティックな映画を公開したというおどろくべきこともありました。女子の学校などでも一日に百二十本のアイスクリームを売って、汗にまびれてけなげにアルバイトして勉強している学生と、文化的な外見をもちながら、生活の中心が全く腐敗してしまっている女子学生とがある。もしこのような今日の現実を、「あれはあの人たちだけのこと」とおたがいに冷やかに眺めあっているだけならば、そこには新聞の社会面と同様に、歴史の前進性、建設性に対して責任をもたない傍観主義があるだけです。「進歩的な」学生たちのグループが、こういう社会現実に対してもし商業新聞の社会面的にみるだけ[#「社会面的にみるだけ」に傍点]という態度でいるようなことがあれば、それらの人々のもっている進歩性というものは、生活の裏づけのうすい頭脳的なものであるということになります。現実の社会悪ととりくんで、悪の中から一つ一つと、社会と人間のよりよい変革のための方向をひき出してゆく、善意の実感の美しい生きた力を欠いていることの証拠です。これは古風な正義派の感覚ではありません。
一般の人々が、毎日の生活の中にこれほどの不合理と権力の押しつけがましさを感じ、物質と精神の渇きあがった苦しさを感じているとき、このままでは、やりきれないという、素朴な人間感情からだけでさえも、自然に変革と前進との側に立たないわけにはゆかないのです。青春そのものがそういうものであるわけです。だから共産主義というものに理解がなくて、共産党員といわれる人々の中にいけすかないものがあるにしても、自分のすきでない共産党や共産党員がやっつけられるという小気味よさにだまされて、本質的には、いい気味がっている本人自身の市民的自由や生活権をかっぱらわれてしまうような、愚かな快感に浸ることは全く人民的自殺です。自分の首をしめていい気持だといっているうちに、窒息してしまった少年よりもおろかです。この愚かなことが一九三三年から以後の日本にはあったのです。やっつけられるのは、左翼の者ばかりだ。「あれは左翼だから」、「戦争反対者だから」と、なるたけ遠のいて自分を権力に屈従させたおびただしい人々が、こんにちどれほど特別にいい生活をしているでしょう。
多くの人は、つのめだった世相につかれて生活のうちにせめて寸刻のやわらぎを求めています。あつい夏の朝、新聞をあければ、今日も明日もと、下山事件、三鷹事件、『アカハタ』への手入れとあつ苦しい、ごみっぽい記事はすべて共産党に結びつけて大げさに書かれている。そんな紙面を見ると、ある種の人々の感情はなんだかうんざりしてしまう。本質的には、底を
前へ
次へ
全9ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング