、いわゆるヴィクトーリアンの風俗が、女らしさの点でどんなに窮屈滑稽、そして女にとって悲しいものであったかということは、沢山の小説が描き出しているばかりでなく、今日ヴィクトーリアンという言葉そのものが、当時の女らしさの掟への憫笑《びんしょう》を意味していることで十分に理解されると思う。
 女らしさは、女にとって随分不自然の重荷であった。真に人間らしい伴侶として婦人を求めている男にとっても苦痛を与えた。従って、その固定観念への闘争は十八世紀ぐらいから絶えず心ある男女によって行われてきているということは注目すべきことだと思う。それらの運動は単純に家長的な立場から見られている女らしさの定義に反対するというだけではなくて、本当の女の心情の発育、表現、向上の欲求をも伴い、その可能を社会生活の条件のうちに増して行こうとするものであった。社会形成の推移の過程にあらわれて来ているこの女にとって自然でない女らしさの観念がつみとられ消え去るためには、社会生活そのものが更に数歩の前進を遂げなければならないこと、そしてその中で女の生活の実質上の推進がもたらされなければならないということを、今日理解していない者はないのである。
 女らしさ、などという表現は、雨について雨らしさ、というのが奇妙であるように、いわば奇妙なものだと思う。社会が進んで万葉集の時代の条件とは全く異りつつしかも自然な合理性の上に自由に女の生活が営まれるようになった場合、はたして女らしさというような社会感情の語彙《ヴォキャビュラリ》が存在しつづけるものだろうか。きっと、それは一つの古語になるだろうと思われる。昔は、女らしさというようなことで女が苦しんだのね。まアねえ、と、幾世紀か後の娘たちは、彼女たちの純真闊達な心に過ぎし昔への恐怖と同情とを感じて語るのではあるまいか。私たちはそういう歴史の展望をも空想ではない未来の絵姿として自分の一つの生涯の彼方によろこびをもって見ているのも事実である。
 未来の絵姿はそのように透明生気充満したものであるとしても、現在私たちの日常は実に女らしさの魑魅魍魎《ちみもうりょう》にとりまかれていると思う。女にとって一番の困難は、いつとはなし女自身が、その女らしさという観念を何か自分の本態、あるいは本心に附随したもののように思いこんでいる点ではなかろうか。自身の人生での身ごなし、自身のこの社会での足
前へ 次へ
全9ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング