に興奮しただろう。事柄はすっかり違ったが、矢張り小さなことで、良人と自分との気持がぴったり合っているのが判った時、さよは、愛はこんなに微妙なものかと、感歎しつくした自分を覚えていた。
 今、彼女はそんなにじき上気《のぼ》せはしなかった。こういう偶然の暗合が、自分達にだけ授けられた天恵だとも思わなかった。家庭の瑣事の一つであろう。幾万とある屋根屋根の下で、しばしば起る日常茶飯のことではある。而も、彼女は、このありふれた出来事の裡に、何ともいえない一縷《いちる》の優しさ、温かさを感じずにはいられなかった。人間と人間とが、高い天の上から瞰下したら、さぞさぞ小さく、然しながら一生懸命に生きてゆく間に、馴れた賢い本能が睦しく互に頷き合う。その頷き合いを、さよは快く良人と自分との心の底に認めたのである。
 煮え立った鍋からは、陽気に湯気が吹出した。良人の書斎の方からは、歯切れのよいタイプライターの音が、彼の周囲を髣髴《ほうふつ》させる一定の調子で響いて来る。――
 台所に働きながら、さよはふと、日頃からすきな
  箱根路をわがこえくれば伊豆の海や
  沖の小島に波のよる見ゆ
という歌を思い出した。
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