た。彼女は、落付きのない眼を動して、救いでも求めるように、濡れきった庭や、廊下や、仄暗い庭を見廻わした。外には、自然も人間も圧しくるむような雨が煙って降っている。点滴の音が単調に聴え出した。――さよは、立って廊下の端まで歩いて行った。何かに押し戻されるように柱の下まで来、彼女はそこに佇んだまま、燈火の光が庭の水たまりに写ってチラチラし始める頃まで動かなかった。夜、彼女は出来るだけ平和に良人の抱擁を拒んだ。ひとりにされると、彼女は暗闇の裡で声を殺し劇しく泣いた。さよは、自分がこういう気持で対している良人の子を孕むことを想うと、恐怖と愧《はずか》しさとで手足が氷のようになった。彼女は闇に瞠った眼尻からぼたぼた涙をこぼしながら、自分で何故ともわからない緊張を以て、良人の穏やかな寝息に注意を凝した。

        五

 若し人間というものが、布で作った着物のように、人の手で解けるものであったら、さよは良人を今こそ熱心に解体し始めたろう。
 そして、一つ一つの部分を、自分に納得の行くまで眺め、触り、引かえして見て、また元の形に纏めあげ、心から安《やすら》おうとしたに違いない。けれども、これは空想に於てさい不可能なことである。彼女の前や横には、その点からは手のつけようのない良人が、外見には親しく近く、さよの心から見ると距離が近いだけ一層増す寂寞さで引添うている。
 その寂しく苦しい心持は、一ヵ月ばかり前、彼女が独りぽっちで家にいた時のとは全然異ったものであった。ある時は、良人さえ帰れば彼女は忽ち救われた。一日中の圧迫されるような陰気さは、彼の顔を見た刹那に消散した。が、今度のは正反対といえた。さよは、保夫が自分のすぐ傍に坐って、天地の間に唯一つの疑問も不安もないという風に湯上りの濃い髪を艶々させているのを見ると、却って絶望に近いほどの寥しさ、野蛮な焦躁に煽り立てられるのであった。
 彼女は、あばれる獣をやっと押えつけているような幾日かを送った。とうとう、辛棒がしきれなくなった。彼女は憐れに一心な顔付で良人につっかかって行った。
 例によって、それは夕食後のことであった。さよがひとりでに黙り込み、卓子に眼を落してばかりいた故か、保夫は早めに書斎に引取った。彼女は暫く後に残って、女中に口を利いたが、軈て良人の後を追うように書斎に行った。六畳の部屋は、短い鍵の手の廊下で離れのように庭に突出ている。保夫は、正面の濡れ縁に向って机を据えていた。夜の、何か濃い液体のような闇は、冴えた電燈が煌々と漲る敷居際でぴたりと押し返されている。彼の後姿は、光を浴びる肩の辺をしろじろと、前方の闇に浮上って見えた。
 さよは、静に机の傍に行った。保夫は、右手に青鉛筆を持ち、薄い仮綴じのものを読んでいる。――細かな横文字を無意味に眺め、さよは声をかけた。
「――おいそがしいの?」
 保夫は、背を延し、パラパラと頁を翻した。
「そういうわけでもないが……何故?」
「…………」
 さよは、夜気が身に迫るとでもいうように、単衣の袖を抱き合せた。保夫は、彼女の顔付を見、微かに表情を変えた。彼女は、藁半紙のようにごく粗末なパムフレットに目を据えたまま、思い込んだ調子で云い出した。
「ね、貴方――安心?」
「何が?――君のような出しぬけでは、返事に困るよ」
 保夫の言葉つきの裡には、充分な用意と、それを包んだ平静さ、子供扱いの気軽さを装う響きがあった。
「何だい?……地震」(一九二三年東京、湘南地方に大震があり、翌年になってもしばしば余震があった。)
「そんなことじゃないわ、地震なんか――私共のこと。――」
 さよは、顔を擡げて良人を正視した。
「貴方ちっともそんな心持はなさらないの? しんから安心?」
 保夫は煙草の煙をよけるように瞼をせばめた。
「何か僕達の生活に不安があるというの?」
 さよは、合点をした。
「私この頃堪らないの」
「……何も不安な処なんかないじゃあないか。僕はこんなに貞節のある良人だ! 君は君で一日じゅう眠ろうが起きようが自由な身の上だ!――僕は不安どころか、大いに幸福だと思う。特に、君なんかユートピア以上の生活だな」
 さよは、不愉快に良人の軽口の先を折った。
「冗談はあと。私は真面目よ。――貴方本当に私共の生活が充実しているとお思いになること? 大丈夫、完全なものだとお思いなさる? 私は、この頃、そう呑気でいられなくなったわ。……ひどく不安なの」
「……我儘だろう?」
 保夫は、さよの笑いを釣り出そうとして、誇張した表情までつけ足した。さよは、真剣で否定した。
「そうではなくてよ。決してそうではありません。二人で暮して行く以上、大事なことだから本気で聞いて下さる方がいいわ。
 私はね、この頃貴方が判らないの。貴方の心持の中心が、生きて行く蕊が、私
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