? 貴方幸雄さんに、伯母さんを早く安心させるもんだよっておっしゃるでしょう?」
保夫は、機械的に答えた。
「云わなくちゃあなるまい。――せっかく理財科まで出て遊んでいるのももったいないからな」
さよは、「何故そんな上っ面で安心? どうしてもう一皮、幸雄さんの心持の下まで切り下げないで安心なのだろう!」という、歯痒い歯痒い心持を、やっと、
「幸雄さんはいい従兄を持って仕合わせね」
という皮肉に洩した。
けれども、保夫は、彼の傍で、さよが、どんな感情に煮え立ち、それをどんな心持で制しているかは、まるで感じないように見えた。彼は苦労も不安もないらしく、艶の好い、型通り青年紳士の顔を、悠々居間の灯の下に浮上らせているのだ。――
彼女が指先に絡めて編んでいた絹糸のように、慎ましく輝き、滑らかであった生活は、少くともさよの心の内で変化した。彼女は、良人と自分との調和ある沈黙の頷き合いは、散歩に出ようか出まいかということ、二人共が丁度同じ時番茶を飲みたいと思うこと等以外に、果してどこまで深く連絡があるかひどく疑わしい心持に、結婚後始めて逢着したのであった。
四
四辺はもう六月であった。
さよは、独りになると、いよいよ濃い青葉のちらちらする縁側に出、鮮やかな紫陽花の若葉の色だの、ガラス鉢の水を緋や白に照して泳ぎ廻る金魚だのを眺めながら、種々な考えに耽った。
これほど心を捕われることから見ても、さよは、自分がどの位良人に執着しているか、はっきり解った。けれども、何故執着しているのか。愛しているから。それなら彼のどこを何を愛しているのかと自問自答して行くと、彼女は、苦しい心持になった。良人と切りはなせない絆を感じる心持と、彼の物足りなさ、詰らなさ、自分の求めるものが決して彼の裡にはないという事実とは、彼女の心の裡で厳然と対立した。さよにとって悲しいことは、これ等の気持を、洗いざらい良人に打ち明けられないことであった。黙って、独りで何か解答を見出さなければならない。それも、二人でではなく、自分だけが何とか変化しなければならない――さよは、保夫が彼自身の平々凡々にはまるで気がつかないのを知っていた。また、彼女が何とか云ったところで、決して素直に十七八の青年のように自らを顧みて涙を落すような質でもないのを知っていた。保夫は、さよから見ると、かんじきを足につけて生れて来た人のように思えた。かんじきは、どんな深い雪の上を歩いても、決して彼を溺らせたり立往生をさせたりはしない。彼女は、自分の足にそんな重宝なものがついていないことを見出した。それ故、彼の行く道を跟《つ》いて行こうとすると、あがきがつかない程、ずぶりずぶりと潜り込む。最後の目当ては一つとしても、さよは、自分の道具がついていない足にかなう路をさぐり出さなければならないのを感じた。これが無形な心の問題であるだけ、良人は、彼女がもう二進三進《にっちもさっち》も行かなくなって、泣きかけで佇んでいるのを知らなかった。彼女がよしそれを訴えたとしても、かんじきのある彼は、彼女がそれを持たないことを思わず「そんなことがあるものか。来る気さえあれば来られるのだ」と云うだろう。
「だって駄目よ、私には駄目なのよ」と云っても、さよは、良人に出して示すべきものは、手近かな視覚に訴えることの出来ない、形象のない、自分の生れつきであるのを侘しく、途方にくれて感じたのであった。
入梅前のせいか、よく半透明な白い磨硝子を張りつめたように明るい空から、光った細い雨が、微かな音を青葉に濯いで降った。さよが、椅子の腕木に頬杖をついて眺めると、古風に松の下に置かれた巨い庭石の囲りに、濃茶をかけたような青苔が蒸していた。天から、軽く絶え間なく繰りおろす細い雨脚は、苔の面に触れたかと思うとすっと消える。後から来たのも、すっと消える。いくらでも、いくらでも、青苔は凝っと動かず降る程の六月の昼の雨を吸い込んで行く。――
見守っているうちに、さよの瞳がだんだんうるんで来た。涙が蓮の葉の露のように藤色のセルの胸をころがり落ちた。彼女は、自分達が何のために、何を目当てにその日その日を一つ屋根の下で生きて行くのかと思った。保夫は、外側からだけ見れば、疑いもなく毎朝出掛けて行くべき役所と、判を押す書類と、ふかすべきウェストミンスタを持っていた。けれども、しんのしんの生きる目的、意味と思うものはどこに持っているのだろう。それ等の一つ一つに小分けにこめられているのか。または、釜しきか何かのように、そういう外廓だけは如何にも確り、ちゃんと出来ているが、中心はすぽ抜けなのではなかろうか。自分は、彼との生活のどこに安心し倚《よ》りかかる場所を見つけられるのだろう。……
或る考えに脅かされ、さよは殆ど椅子から立ち上りそうにし
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