とまるで別な、遠い処にあるようで苦しいの。それは勿論」
 彼女は、気を入れて聞き始めた保夫に説明した。
「同じような処もあってよ。同じに考えたり思ったりする事もあります。けれども、それは些細なことで、結局お互がどちらでもいいから、無意識に譲り合って行くのでそうなので、大元の処へ行くと、二つがすうっと離れねばならないようなの。お判りになる? 私の云うことが……。例えば、今、私がこんなことを云うまで、貴方一寸もそういう心持は感じていらっしゃらなかったでしょう? 自分が感じないばかりでなく、私が感じていることも、まるでお感じにならなかったでしょう?――それが離れていると私が云うところです」
「ふうむ。……然しそれは、君が僕の気持をよく理解しないからだろう。まだ――」
「そうか知ら。――私は逆のように感じてよ。貴方は、私共が世間で認める通り夫婦で、外から見た条件がちゃんと調っているのだけ知って安心していらっしゃるのじゃあないこと? 自分達の心の問題を放ぽり出して、他人のように外側だけ見て好い気になっているのは嫌よ。――私は根から安心したいのです。貴方と私とが、本当にこここそというところを確り持ち合って行きたいの」
「――いやに懐疑的だね」
 保夫は、手入れの好い髭の辺に、不似合な曖昧な迷惑げな表情を泛べて、さよを見た。
「こうやって生活しているという事実以外に、僕等の生活のあるべき訳がないじゃないか。それに……君の言葉は捕えどこがまるでない。遠いとか寂しいとか云わずに、どこか悪いところがあるなら明瞭に指摘すべきだ。それが君に出来ないなら、僕は、君の云うことに、はっきりした土台がないとしか思えないよ」
「悪いというものではないのです。なおすというより、もっと心の底に入るの。もっとむき出しで、鋭く感じる心が私は欲しいの。私に遠慮なく云わせれば、私のこの心持を論理の上で正しい形をとって説明させようとなさる、それが淋しいのです。判ったでしょう? 心のことよ。心直接感じるべきことなのよ!」
「じゃあ堂々廻りで結局、僕に云っても駄目だということじゃあないか!」
 保夫は、さよの胸を一杯にした冷やかな事務家的態度を示した。彼女は、辛うじて自分の涙もろさに打ち勝った。
「私は、駄目だと云って澄していられないのよ! 二人で生きて行くのなら、生きてゆくようにして行きたいのです。だから――」
「ね、さよ」
 保夫は、煙草を灰皿の上に揉み消し、熱くなってつめよるさよを遮った。
「生活の幸福というようなものは、愛と同じで、一種の信仰だよ。信仰次第でどうともなる。――君なんか、まだまだ生活がどんなものだか知らないのだ。……君だって僕の愛だけは、信じられるだろう? それがお互の生活の万事ではないか」
 彼は、何か云おうとするさよの手を執った。そして、
「さあ、理窟はやめて、可愛いさよにおなり」
と云いながら、彼女をひきよせて愛撫しようとした。彼女は、赧くなって、遂に涙をこぼした。
「そういう風に片づけては駄目。――貴方は、狡いわ!」
 彼女は、手を引こめて、きちんと坐りなおした。
「私だってお互が大切だと思うからこういうことも云い出すのです。愛している、愛しているって、百万遍お互に誓い合ったって、心の観音開きがいつでも行き違ってプカプカしていて、貴方平気? 平気でいらっしゃれるの?」
 さよは、せめてここで「いや、そんなことでは堪らない。そんなことをしては置けるものか!」と云って欲しかった。彼女は、その一言で、心半分は助かっただろう。彼女は、どこかでぴったり、率直な、むき出しな保夫の心にぶつかりたかった。それを願うばかりに、多くの言葉も費すのに、彼は、驚くべき冷静さで云った。
「それは君の想像だよ。――君ばかりが、閑にあかして捏ねあげたものの証拠には、見給え」
 彼は、凱旋者のような眼に微笑さえ湛えて云った。
「現にこうやって一つ家に生活している僕が一寸も感じていないことじゃあないか」
 さよは、我知らず、
「独断家!」
と叫んだ。
「貴方、よくそんな! 自分の判るだけしか人生は、人間の心はないと思っていらっしゃるの?」
「亢奮しない方がいい。――而も、僕は君にとって、決してあかの他人だとは思っていない。少くとも良人だ。良人である自分に、君の……妻である者の大切な心持が判らない筈がないじゃあないか。それだのに、低能でもない僕に感じられないとすれば、気の毒だが、君の方が根拠が薄弱だ」
 さよは、心の歯を喰いしばった。彼女は、出来ることなら擲りつけて、良人を独善的な、紳士的な、冷血な頑固さから突き出したかった。彼は、さよの心が、どんなに苦しんでいるか思い遣ろうともせず、卑俗な自分の頭の正確さに、寧ろ愉快を感じてさえいるではないか? さよは、獣のように呻いた。ホッテント
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