よを見た。
「ずるいぞ、触ったな?」
「いいえ。そんなことはしないわ」
彼女は、逆に訝しそうに良人に訊いた。
「でも――当ったの?」
「珍しく直覚の出来がよかったね、オゥトミイルだよ二つとも」
「まあ……」
さよは、思いがけず、驚いた。彼女は「違うよ」と一言に否定されることを予期していた。彼女はそれをきっかけに、
「本当はあれが欲しかったのよ」と云う積りでいたのであった。彼女は自分がうまく当ったと思うより、良人がどうしてこれを、特に今日、買って来る気になったかと意外であった。
「私、今朝何とか云って? オゥトミイルのこと」
「いいや、云わないよ」
保夫は、さよの眼を瞠った顔から、自分の手柄を素ばしこく見てとった。彼は、さも自信ある良人のように云った。
「ちゃあんと判るさ、これ位のことは。顔に書いてあったのさ」
すっかり夕飯の後片づけがすむと、さよは明朝の準備に、碧色の二重鍋を火にかけた。中には、先刻のオゥトミイルが入っている。踏台に腰をかけ、料理台に両肱をもたせ、電燈の下で、煮える鍋の番をしながら、彼女は自分の気持を考えた。
もう半年も前であったら、こんなことでも自分はどんなに興奮しただろう。事柄はすっかり違ったが、矢張り小さなことで、良人と自分との気持がぴったり合っているのが判った時、さよは、愛はこんなに微妙なものかと、感歎しつくした自分を覚えていた。
今、彼女はそんなにじき上気《のぼ》せはしなかった。こういう偶然の暗合が、自分達にだけ授けられた天恵だとも思わなかった。家庭の瑣事の一つであろう。幾万とある屋根屋根の下で、しばしば起る日常茶飯のことではある。而も、彼女は、このありふれた出来事の裡に、何ともいえない一縷《いちる》の優しさ、温かさを感じずにはいられなかった。人間と人間とが、高い天の上から瞰下したら、さぞさぞ小さく、然しながら一生懸命に生きてゆく間に、馴れた賢い本能が睦しく互に頷き合う。その頷き合いを、さよは快く良人と自分との心の底に認めたのである。
煮え立った鍋からは、陽気に湯気が吹出した。良人の書斎の方からは、歯切れのよいタイプライターの音が、彼の周囲を髣髴《ほうふつ》させる一定の調子で響いて来る。――
台所に働きながら、さよはふと、日頃からすきな
箱根路をわがこえくれば伊豆の海や
沖の小島に波のよる見ゆ
という歌を思い出した。
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