活々と、楽しく、東京では目抜きというべき街路の舗道を彷徨《さまよ》えた。――家が空だとあぶないというので、彼女は、この遠征も思いのままに出来ない。侘しい重苦しい心持が春の曇天のように罩《こ》めて来た。
さよは、立って行って編物袋を出した。
縁側の籐椅子にかけて、彼女は袋の中から銀鼠色の絹糸を出した。そして、先の尖った金属の針を濃く緑色に溶けた日光に燦めかせ、祖母の肩掛けを編み始めた。
良人は、その日いつもより少し晩く帰って来た。
四辺《あたり》がとっぷり暮れると、独りでいるさよは、燈火の明るい自分の家ばかりたった一つ、広い田園の暗闇の中に、提燈のように目立っていそうな気がした。そして、ひどく不安を感じた。いくら戸をしめても窓を閉じても、すき透しに自分が真暗な戸外から覗かれているようにこわいのである。彼女は、台所で立てる自分の物音が、妙にはっきり四方に響くような気がした。ちらちら硝子に映る自分の顔が、見なれない疑わしいもののようにさえ思われる。彼女は神経をはりつめて簡単な炊事をするのである。
それ故、良人の声が玄関ですると、彼女はやっと危い綱渡りをすましたように吻《ほ》っとした。彼女はいそいで格子の鍵をはずした。そして良人を歓迎した。
「おかえりなさい。――今日は少しおそかったのね」
朝から殆ど始めて人間と口を利くのであったから、さよはいくら喋っても喋りきれない暖い潮が胸一杯に流れるのを感じた。
「どうなすって?」
「今日はね、思いがけない用事で伊東屋へ行ったんでおそくなった。――ひどいよ今頃は。まるで喧嘩さ」
「銀座の?」
彼女は、靴をぬいでいる良人の背中を見下しながら、それは惜しいことをしたと思った。
「銀座へいらっしゃるんだったらお願いすることがあったのよ」
「ほう……何だね。また行けばいいが……然し」
彼は、今までさよに見えなかった一つの紙包みを黒皮のポートフォリオのかげから出した。
「こういうものがあるんだが……」
それは、明治屋の商標をもっている。さよは冗談の積りで云った。
「私当てて見ましょうか? 何を買っていらしったか」
保夫は、外套を掛け、居間に入りながら云った。
「あやしいものだぞ」
「大丈夫、きっと当てるわ」
さよは、勿論間違うものとして断言した。
「オゥトミイル――二鑵? それとも一つは何か別なもの?」
保夫は振向いてさ
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