!」さよは、唇に鮮やかな血色を失った。彼女は、努めて声に力を入れ、眼球が強ばるほどせき上げる激情をやっときれぎれな言葉に表した。
「そんな、生半可なフィジオロジなんか……すてておしまいなさい。そんな下らない智識で、貴方、私の心全体、判断出来るとお思いなさる……何故真心でいきなり、真心でぶつかっていらっしゃらない! 卑怯です。――卑怯というのは……そういう」
 さよは、言葉が喉に塞《つま》って、熱病に患《かか》ったように体中を戦慄させた。
「貴方は……私が――自尊心を傷けられて黙ると……思っていらっしゃる。私の哀れな見栄や己惚れを――……利用しようと……思って」
 彼女は、激しい悪寒と熱とが一緒くたに体や頭の中を貫いて奔流するように感じた。彼女は、両手で確かり顔を押えた。そして、保夫の机の端に肱をついた。体は、畳から浮上って気味悪く高い庭へつり上ったかと思うと、眩暈につれて、低い低い、底なしの暗闇に沈み込むようだ。――
 彼女は、静かに泣き出した。なま暖い涙は、掌を洩れ、手の甲を伝って、ぽたり、ぽたりと机の上に大きな滲みを作る。彼女は、その涙の奥に、幾年か忘れていた一つの光景を思い出した。
 それは、彼女が生れて二十年育った家の湯殿であった。
 四畳半ばかりの板敷きに畳表を置いた脱衣室の一方は、竹格子の窓になっている。下に、母の鏡台が置いてあった。鏡には、鼠色の地に雨と落花と燕の古風な模様がついた被いをかけてあった。その前で、夜の二時頃、ただならない気勢《けはい》でぴたぴた素足のまま起きて来たさよに、彼女の母が、
「さよちゃん、お父様と私と、何方が間違っているかよく聞いておくれ。私がどんな道理を云っても、お父様は、そらまた歇私的里《ヒステリ》だと相手になさらない。……何故、女になんか生れて来ただろう、どうせ一度しか生きもされない世の中だのに」
と泣いて訴えた有様であった。
 母はあの頃三十四五であった。さよは、やっと十二三であった。彼女は、途方にくれ、泣きむせぶ母の肩を自分の胸に抱きしめて、
「泣かないのよ、お母様。泣かないのよ。ね、私お父様によく云ってあげるから……泣くのをやめて、よ!」
と、波打つ鬢の毛に口をつけて囁いた自分の稚い姿をまざまざと覚えている。――
 父に何を云おうと思ったのであろう? 今になってさよは、母の切な涙を自分が流しているのを知った。そして、
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